至上の幸運
☆
違う国の言葉を話すっていうのは、度胸がいる。
景子は、英語の時に十分その難関を味わっていた。
赤ん坊のようなたどたどしいしゃべりを、相手に聞かれてしまうのだ。
照れが、大爆発してしまうのである。
それを、アディマに頼むなんて。
しかし、その機会は遠からず訪れた。
昼時。
休憩も兼ねて、森の中で昼食が始まったのだ。
ダイの担いでいた大きな袋から、干し肉やパンなどの携帯食料が引っ張り出される。
そんな食事中、小さな生き物が現れたのだ。
それは一度足を止め、遠巻きにこっちを見る。
しっぽのないリス、に近いだろうか。
それを見て、アディマが。
「──」
一言だけ、言葉を発したのだ。
何の付属の言葉もない、短い一言。
「──?」
景子は、あっと思って同じように繰り返してみた。
微妙な音が入るので、カタカナに慣れた景子には、少し難しいもの。
アディマが、もう一度繰り返す。
景子は、微妙なところを修正してみた。
アディマが──優しく目を細めた。
及第点だぁぁぁ。
景子は、先生にほめられた子供のように、嬉しさに顔を崩す。
「ふんふん、──」
菊も、ぼそっと口の中で呟いているようだった。
リサーは、非常に複雑な表情でその様子を見ている。
アディマ自らが先生になるというのが、どうにも気に入らないのだろう。
すると。
彼はいきなり立ち上がり、指を差しながら、目につくものを片っ端から発音し始めるではないか。
自分が、アディマの代わりをやろうと思ったのだろう。
しかし、それは。
速すぎて多すぎて、景子の耳に留まるものは一つもなかったのだった。
※
「私は、景子です」
最初に覚えたこの国の文章が、それだった。
長い旅は、少しずつ少しずつ新しい言葉を増やしていってくれる。
夜の暗い月の下で野宿をする時、彼女はは寝物語のようにアディマの言葉を聞くことが出来た。
すぐ側で、眠れるようになったのだ。
最初は、リサーが不満をあらわにしていたが、ついにはあきらめたようだ。
そのおかげで。
「アディマ、おはよう……いい天気ね」
起きた後、この国の言葉で、一番最初にそう話しかけられるようになっていた。
「おはよう、ケーコ……うん、いい天気だ」
浅い洞窟から見える外の空に、アディマはその金褐色の瞳を細める。
景子は、最初に植物の名前を制覇していった。
職業柄、それを覚えるのは得意だったのだ。
花屋で扱う植物は、外来種も大変多いので、漢字ではない植物名に慣れていたおかげだろう。
覚えた植物を、見かける度に唇の中で繰り返す。
植物に詳しいのは、シャンデルだった。
花の名前を聞いた時、男たちの誰も名前を知らなかったことがあったのだ。
それにたまりかねたように、彼女が名前を口にしたのが始まりだった。
その後、シャンデルが植物担当のような扱いになったのである。
本人は、不承不承という様子だったが。
「ケーコ─植物─好き──?」
部分的に、分かる言葉で理解できた。
「好き、大好き」
つい、にこにこして答えてしまう。
植物は、景子にいつも優しいのだ。
昼は明るい色で、目を楽しませてくれるし、夜は光って彼女を助けてくれる。
薄暗い森の中でも、植物の光があるおかげで、楽しく歩けるのだ。
そんな彼女の目に。
ひときわ光る樹木が、遠くに映った。
何かの実をつけている──そんな色の光だったし、他の木と光り方そのものが違うのだ。
「アディマ……木……果物?」
何とか単語を引っ張り出して、景子はアディマの意識を引いた。
ダイが目をこらす。
「太陽……?」
呟かれた言葉に、菊以外が一斉にそっちを見た。
※
道を外れても、そこは行くべきところだったようだ。
森の中、ダイを先頭に彼らはその木を目指すのである。
近づくにつれ、アディマが瞳を眩しそうに細めてゆく。
「うん、そうだ」
輝く橙色の実をたわわにつけた、威厳ある木だった。
ダイが一度神妙に、自分の眉間に指をあてた後、大きな背を生かして実をひとつもぎ取る。
その実は、アディマに捧げられた。
「ケーコ……これは、太陽の果物だよ」
彼は実を、空に掲げる。
木々の間から入る太陽に、かざそうとしたのだろうか。
そうせずとも、景子の目には眩しいほどだった。
リサーもシャンデルも、木や実を興奮して見つめている。
太陽の果物……ミカンみたいなものかしら。
景子は、とぼけたことを考えていた。
「それ……珍しい?」
菊が、ブツ切り単語で問いかける。
シャンデルが、とんでもないという目で振り返った。
「太陽の果物……──!」
早口でよく分からないが、相当珍しいもののようだ。
「100─1─」
アディマの口から、数字が出てきた。
100? 1?
子供が覚える数字のわらべ歌を習ったおかげで、景子はこの世界の数字を理解していた。
歌わされたのは、シャンデルだったが。
無愛想なまま、しかし、指を折りながら歌ってくれたので、それが数字の歌だと分かったのだ。
100と1
100回に1回、100度に1度──100年に1年。
100年に1回!?
景子の頭の中で、それらしいものとつながって仰天した。
「至上の幸運」
アディマの声で、景子は新しい言葉をまた一つ覚えた。
美しい言葉だった。




