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二人の男

 トーが、いた。


 現れたというより、最初からそこにたたずんでいたような、そんな錯覚を覚えるほど、彼はその空気に馴染んでいたのだ。


 夕刻。


 菊の道場の前での出来事だった。


 気まぐれに都で歌っているところを、捕まえるしか出来ないだろう。


 そんな風に思っていたので、わざわざ出向いてくれたのには予想外だった。


「し……」


 トーの視線が、一度ぴたりと菊の顔の真ん中で止まり。


「……まい」


 すぅっと、家の方へとその視線は動いた。


 分割された言葉を、菊は無理につなげて考えることもせず、トーを見る。


「うちの相方の、つわりがひどくてね」


 そして、簡潔に告げた。


 瞬間。


 彼は、菊が驚くほど早く、家の中に入ったのだ。


 エンチェルクの、小さい悲鳴が聞こえてくる。


 おや。


 予想外の、素早い反応だった。


 端的な菊な言葉から、どれほどの意図をくみとったのか。


 歌が。


 家の中から、歌があふれだしてくる。


 慈しむ歌。


 トーが、景子の結婚式の時に歌った歌とは違うが、同じ喜びをそこから受け取ることが出来る。


 なんだ、嬉しいのか。


 入るのも野暮に思えて、菊は道場の脇の石に腰掛けた。


 景子の子や結婚を喜び、今度は梅の子を喜ぶのか。


 夜を厭わぬ人々が増えることを、トーは心から喜んでいるのだ。


 まるで、自分の子のように――いや、もう彼の中では、既に家族のような位置なのかもしれない。


 日が暮れてしまうまで、歌は続いた。


 ようやく、静かになって。


 トーが、ゆっくりと外へ出てくる。


 菊を見た。


 歌ほど感情の乗らない瞳が、しかし、まっすぐに彼女に注がれる。


「変わるのだな。本当に、変わるのだ」


 微かに震わせる自身の手を、トーは信じられないように見つめる。


「子が、増える。子の子が増える……世界は本当に変わるのだ」


 見上げる、空。


 昇る、月。


 震える手を、ぎゅっと拳にし――トーは月に向かって歌い始めた。



 ※



 トーは、頻繁に梅のところへと現れた。


 それを、菊と同じくらい喜んだのは、おそらくマリスだろう。


 彼は、ついに念願叶って、歌う男を目撃出来たのだから。


 しかも、夜に。


 梅の腹の子を寝かしつけるかのように、トーは夜によく現れたのだ。


 マリスは、白い髪の男に話し掛けたりはしなかった。


 ただ、夢中で筆を走らせるのみ。


 黒い月の下では、さしたる色も分からないというのに、この画家の頭の中では、そんなことは障害にもなっていないようだった。


 かくして。


 不思議な構図が、ここに完成した。


 未来のために、子を残そうとする梅のために歌うトーを、絵として残そうとするマリス。


 さて。


 この構図から、あぶれた者がいる。


 エンチェルク――ではなく、菊だ。


 トーのおかげで、具合がよくなった梅が仕事へ行くので、エンチェルクも忙しかった。


 剣を振る以外、さして能のない彼女に出来ることは、やはりただ剣を振るだけ。


 そんな菊に、トーがこう聞いた。


「子は、産まないのか?」


 彼は、随分と人らしくなってきた。


 でなければ、人にこんなことなど言ったりしないだろう。


 トーに、欲が出てきたのだ。


 家族を、増える喜びを知り、増えることを望み始めたのか。


 おかしかったのは、自分にそんなことを言ったからではない。


 菊も女ならば、いつかはそんな機会がくるかもしれない。


 彼女は、いつも自然体のつもりだった。


 おかしかったのは。


 次の言葉を、トーが付け足したからだ。


「もし必要なら、いつでも私を使うといい」


 菊は、笑いながら答えなければならなかった。


「間に合ってるよ」



 ※



 さて。


 菊は、ひとつ悩まなければならなかった。


 トーの残した言葉が、彼女を思考の泉に投げ落としたのである。


 と言っても、子供の話ではない。


 トーが、なぜこのタイミングで、彼女の家を訪ねてきたのか。


 何気なく聞いたら、意外な答えが帰ってきたのだ。


 文が届いた、と。


 ある日、兵士がトーを追ってきて、たった一行の文を届けたと言うのだ。


『姉妹に会われたし』


 ん?


 微妙な心当たりに、菊は翌日あの門下生を捕まえて聞いたのだ。


 お前が追い掛けたのは、白い髪の男か、と。


 否定は、しなかった。


 職務なのでと、素直に答えはしなかったが、否定もまたなかったのだ。


 まいったな。


 あの男が。


 ダイが、酔った彼女の言葉を、真正面から受け止めたのだ。


 そして、部下もろとも、仲良く減給という有様。


 さて。


 社会的な恩は、梅が子供を産んでもなお無事であったなら、彼女が返すだろう。


 では、菊はどうすればよいのか。


 彼女は、何も持ってはいなかった。


 金もなければ、職もない。


 いわゆる、梅のヒモ。


 いままでは、なにもなくても、困らなかった。


 だが、いざ誰かに礼をしたいと思った時。


 菊には、命ひとつと刀一振りしかなかったのだ。


 そして、あの男は誰かに守られる必要もない。


 十分に、強いからだ。


 命か、刀か。


 その選択肢を、菊が深く悩むことはなかった。


 簡単だった。


 ダイは──どちらも欲しがらない。

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