失敗作
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トーという男は、なかなか都へ現れなかった。
エンチェルクにとって、その事実はどうでもよいことで。
ただ、彼が帰ってこないと、道場の居候もずっと居座ってしまうのだ。
その間、マリスは退屈している様子はなく、道場やキクやウメを描いていた。
特に、ウメを描くことにかけては、特別の力の入れようだ。
よほど、この男の芸術的な目にかなったのだろう。
ウメは、さしてそれを気にすることなく、好きにさせている。
エンチェルクは、マリスに特別何か思うところはなかったが、彼の描く絵が美しいことだけは分かった。
さすがは、宗教画専門の絵描きだ。
ただ座っているだけのはずのウメの姿は、肖像画には見えなかった。
何か大きな天啓を受けた女性が、こちらに向かって微笑み、目で語りかけているように見えるのだ。
ウメびいきのエンチェルクは、その絵がとても気に入ってしまった。
だから、マリスに言ったのだ。
「この絵……出来上がったら、売ってくれませんか?」
どうせウメの絵ならば、神殿におさめるということもない。
完全なる彼の道楽だと、思ったのだ。
余り高い額ならだめだが、紙と画材の材料費くらいなら、エンチェルクにも払えそうな気がした。
そして、ひそかに自分の宝物にする気だったのだ。
なのに、突然彼は慌て出す。
「あっ、いや、これは、出来が気に入らないので、人様に売ることはできません」
美しい絵は描くが、どうにも気が弱い。
大分慣れたはずのエンチェルクに対しても、この騒ぎだった。
「いえ、私が気に入ったので……是非」
彼女は食い下がったが、マリスは首をぶるぶると振る。
「あ、それなら今度、また別に描いた時に。今度こそ失敗しませんから」
結局。
エンチェルクは、根負けしてしまった。
絵描きという人間と、これまで直接話したことはなかったが、とても変わっているとしか思えない。
あの美しい絵を指して──失敗作なんて。




