そうあらねば、ならぬというのなら
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男は、絵描きだった。
キクの知り合いの、絵を描きに来たという。
歌う、男。
その男の話は、アルテンも噂で聞いている。
婚儀の日の、祝福の歌。
あの声の持ち主、だ。
マリスと名乗った男は、婚姻の儀に間に合うべく、都へ向かっていたという。
しかし、残念ながら彼の望みは叶わなかった。
これから、神殿のツテを使って、宮殿に絵を届けに行くらしい。
イデアメリトスの御方と、正妃になられた方の絵なのだ、と。
それらの話を、アルテンは掃除をしながら聞いていた。
男は、別の意味で床を這ったり、天井を見上げたりしていたが。
「私も、この後宮殿に挨拶に行くから、うちの荷馬車で送っていこう」
別れのはずの朝を、彼は騒々しくしてくれた。
それだけでも、アルテンにとってはありがたい。
ウメと別れた後に、一人でいたくなかったのだ。
「それはありがたい……って、荷馬車?」
マリスは、食いついた直後、怪訝そうな顔を向けた。
ああ。
キクの教育のたまものだな。
道場にいるせいで、なおのことアルテンは自分が何者か忘れそうになるのだ。
その肩書のおかげで、領地に帰らなければならないというのに。
黙って掃除をしていたエンチェルクが、ささっと男の側へ寄り、耳打ちした。
ぎょぎょっと、マリスが目をひんむいてこっちを見る。
ようやく。
ようやく、彼はアルテンが貴族であることを知ったのだ。
自分の身分など、どうでもいいほど。
ここは、居心地がよすぎた。
志を持って暮らせば、平民の生活が貴族に決して劣ることはないと知ったのだ。
それは、自分の血肉となった。
平民が志を抱けるよう、良い領主にならねばならない。
もう。
キクには昨日、別れの挨拶は済ませている。
ウメには── 一言だけ用意した。
それ以上は、アルテンには言えそうになかった。
※
目の前にいるのは、キクとウメとエンチェルク。
後ろに荷馬車を待たせ、アルテンは彼女らの前に立った。
絵描きは、既に小さくなって荷馬車に積み込まれている。
「キク……また会いましょう。近くに来られたら立ち寄ってください」
彼女とは、また会える気がした。
いくつになっても、きっとキクはアルテンよりも強く、目の前に立ってくれるだろう。
「領主の訪ね方など知らんが、それでもよければ寄らせてもらおう」
彼女は、いつも通りの受け答えだ。
軽い風のようであり、どっしりとしているようでもある。
彼が心配することなど、何もない。
「ウメ……」
彼女を見ると。
ウメは、穏やかに微笑んでいた。
その細い身体を、かき抱きたい衝動にかられ、アルテンはしばしの沈黙を必要としたのだ。
身分の差だけというのならば。
たったそれだけの壁ならば、アルテンはいかようにしても乗り越えたことだろう。
だが、彼女は都へ残り、そしてその子もまた、彼女の意思を継ぐ者として産む気なのだ。
とても。
とてもウメは、領主の妻におさまる者ではない。
「梅……『さようなら』、だ」
出来うる限り、アルテンはその音を再現した。
『梅』と。
キクがいつも姉妹を呼ぶ音は、自分が彼女を呼ぶ音とは違う。
その耳で覚えた音を、ようやく彼は音にした。
そして。
別れの言葉を。
彼女たちの国の言葉を、口にしたのだ。
キクが、教えてくれた言葉だった。
そうあらねば、ならぬというのなら。
君が都へ残り、志を遂げたいと望むのならば。
「さようなら……アルテンリュミッテリオ」
もしも。
もしも、梅が涙を浮かべていたのなら。
アルテンは。
きっと耐えられずに──彼女をさらってしまっただろうに。




