奇妙な客人
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「やっ……やめてくれっ!」
突然、闇の中から――男の悲鳴があがった。
反射的に、ダイは身構える。
だが、完全に酔いも醒めていないというのに、キクはもっと素早かった。
もう、声の方へと走り出していたのだ。
走ると、余計に酔いが回るぞ。
そんなダイの心配も、どこ吹く風。
瞬時に、キクは異変を見分け、刀を抜かないまま、数人の男を鞘で斬り捨てた。
鞘さばきが見事すぎて、そうとしか見えなかったのだ。
倒れた連中も、斬られたと信じて疑わなかっただろう。
その錯覚が、一瞬の空白を生んだ。
「去ね」
生きている事実に呆然としていた男たちは、キクの鋭い声に尻を叩かれるように、逃げちらかしたのだった。
残ったのは。
腰を抜かした、男が一人。
夜の町を歩くには、ひよわな身体だ。
逃げた連中は、みな丸腰だった。
ちょっとばかし、ガラの悪い町民だろう。
夜に弱そうな男が歩いているのを見て、魔がさして絡んだ、というところか。
キクもそれを分かっているのか、腰を抜かした男に視線も落とさず、ダイの方へと戻って来る。
そんな彼女に。
「ま、待ってくれ! 君たち、知らないか? 夜に歌う男のことを!」
へたりこんだまま、彼は声を裏返らせた。
キクは、足を止める。
心当たりが──ないはずがない。
歌う男、というだけでも、キクはきっと足を止めただろう。
夜に、とオマケがついた日には。
「その男に……何の用だ?」
キクが、静かに問いかける。
「私は、その男を描きに来た! 私は画家なんだ!」
ダイは、思わずキクを見た。
彼女も、こっちを見る。
奇妙な拾いものをしたようだ。
※
男は、マリストロイガーノスと名乗った。
宗教画の画家だという。
長くなりかけた髪を後ろで結んでいるが、とても貴族には見えない。
おそらく、不精しているだけだろう。
走り回って、余計に酔いを回したキクの腕を取り、男を連れ、仕方なくダイは自分の官舎へと連れて来た。
トーの話を、往来でする気になれなかったのだ。
彼は、夜側の人間で。
都と言えども、あちら側の連中が潜んでいないとも限らない。
「最初は、これなら食いっぱぐれないと思って、宗教画を始めたんです」
このご時勢、絵を志すのはかなり難しい。
道楽の貴族をパトロンに持たなければ、とても食べて行けないからだ。
ただし、宗教画は違うという。
ちょっと美化して幻想的に描けば、それだけで神殿などは喜んで絵を買うらしいのだ。
「でも……私は、生まれて初めて奇跡をこの目で見たんです」
彼は、手を震わせる。
その時の興奮が、まだ手に残っていると言わんばかりだ。
「それから……私は、奇跡を描かずにいられなくなって、奇跡を追い求めて来ました」
それで──トーの噂にぶちあたった、というワケか。
イデアメリトスと違う意味で、確かにあれも奇跡だろう。
しかも、あの男は太陽のお墨付きだ。
描くのに、何の障害もないと思っているに違いない。
「私は、歌う男を描きたいのです! 歌で人を癒すという、その男を!」
ひよわな身体でも、奇跡だけを追いかけてこの都までくる熱意は大したものだ。
ふわあ。
熱意の向こうで、キクがあくびをした。
「ちょっとばかし、話が変わってるように聞こえるな」
あくびの音で視線を向けるマリスに、キクが気だるげに言う。
「変わってませんよ!」
とんでもないと、否定する彼に。
「『夜に歌う男』を、描きに来たと言わなかったか?」
瞬間。
マリスは、はっと息を飲んだ。
「そ、それは……」
突然。
彼は、視線をおどおどと動かし始めたのだった。
※
ダイは、初めて官舎に他人を連れて来た。
キクと──マリスだ。
キクは、眠そうにしながらも、鋭く画家に針を刺す。
その針で、縫いとめられたことに気づいたのか、マリスは視線をおどおどと動かし始めたのだ。
まるで、悪いことをしたことを、誰かに見咎められたかのように。
「ち、違うんです……私は、別に……」
ダイは、首を傾げた。
何の言い訳をしようとしているのかさえ、彼には分からないのだ。
しかし、視線は完全にダイの方へと向けられている。
何故、自分に向かって言い訳をする必要があるのか。
「あははは……悪い悪い、追い詰める気はないんだ」
その光景に、おかしそうにキクが笑い出した。
マリスは、やや半泣きのような目になって、オロオロとしている。
わ、分からない。
ダイは、本当に何一つ理解できずに、二人を見ているしか出来なかった。
「官舎に連れてきたから、ダイがこの国の兵隊の偉いさんだって分かったんだよ」
まず、一歩。
キクが、言葉で溝を埋める。
近衛隊長である自分に、何かやましいことがあるということか。
「マリスは、トーの歌の話をふたつとも聞いたんだろう。昼に歌うトー。そして……夜に歌うトー」
キクがマリスを見ると、彼はバツが悪そうに視線をそらした。
「その上で……この画家は、夜に歌うトーを描いてみたくなったのさ。太陽の下のトーではなく」
「あのっ! そ、それは!」
キクの暴露は、的確だったのだろう。
マリスは、大慌てでダイに言い訳をしようとする。
彼は、それを手で止めた。
「いい……疑っているわけじゃない」
やっと、分かった。
宗教画に描かれる世界は、全て昼の世界だ。
当然である。
イデアメリトスは、太陽なのだから。
なのに、マリスは。
太陽の下ではなく、月下のトーを描きたいと思ったのだ。
それは、とても不道徳なことだと、彼も分かっていて。
ダイに捕まるのではないかと思い、言い訳をしようとしたのだろう。
そんなことに、すぐに気づけないほど。
自分が、キクに毒されていることを知るだけだった。
※
「しょうがない……うちに連れて帰るか」
話の筋が通り、これからどうするかという話の雰囲気になりかけた時。
キクが、一瞬で結論を出した。
「とりあえず、寝泊りするだけなら道場もあるし……トーの客なら無碍にも出来んしな」
ちょいと借りがあってね。
キクは、片目を細めて見せた。
ダイには、あまり歓迎できない。
あの男は、敵を連れて来る。
その敵を狩るのが、ダイの仕事ではあるのだが、騒乱を都に持ち込まれるのはよくないことだ。
反対しようとした矢先。
キクが、まっすぐにダイを見た。
「出来たら、一年くらいトーを都に留めたい」
そして。
とんでもないことを、言い出す。
無理だ。
言いかけた言葉を、ダイは飲み込んだ。
彼女が、何か思うところがあって、その言葉を言っている。
きっと、何か大事な理由で。
彼の無言の意味を知ってか、キクがふっと笑みを浮かべた。
「すまんな……困らせたいワケじゃないんだ」
行こう。
彼女は、立ち上がる。
客のマリスを連れて、家に帰ろうとしているのだ。
「事情を……」
キクはさっき、ダイを頼るようなことを言った。
トーをとどめることを、彼が望んでいないと知っている上で。
たとえ彼女が酔って言ったことだとしても、それを放り出してしまえなかったのだ。
キクは、入り口に立って、そして振り返った。
「私の……わがままだ」
笑う。
そして、去る。
「分かるように……話せ」
ようやくダイが呟いた言葉など──誰も聞いてはいなかった。




