夜の散歩
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「アルテンが……国に帰るそうだ」
酒場の席で、キクがそう言った。
こうして、彼女と食事を共にするのは、何度目だろうか。
ダイの頭の中に、キクの一番弟子が浮かぶ。
確か、彼女の弟子の中で、唯一の貴族のはず。
肩書きを持たぬ、しかも女に剣を習おうとする貴族は、いまのところ他にはいないようだ。
道場では、キクに継ぐ強さとして、ダイの部下たちにも慕われている男。
領主の息子と聞いていたので、いつかは帰らねばならなかっただろう。
ただ。
彼女の声には、珍しく寂しさが含まれているように思えた。
別れも出会いも、あるがまま。
縁があれば、また会える。
そう考えているキクにしては、少しばかり今回の別れは意味が違うのか。
「道場で……」
思い出すように、彼女はため息をつく。
「道場で……私に頭を下げるんだ」
そこから先は、ダイは呆然と話を聞いているしか出来なかった。
許されるものならば、ウメをさらってでも領地に連れて帰りたい。
けれど、彼女は都から離れたがらないだろう。
だから、どうか。
どうか、ウメをよろしくお願いします、と。
貴族の男が。
床に額をこすりつけんばかりの勢いで、キクに頼んだという。
乏しい想像力のダイの脳では、とても追いつけないほどの光景が、そこにあった。
「馬鹿な男だ……」
呆然としているダイに、キクは寂しげに笑うのだ。
「私は、ウメと生まれる前から、よろしくやってるっていうのにな」
何を、今更。
「悪いな……変な話をして」
キクは、ため息をこぼしかけた唇を、笑みへと変えた。
「いや……」
誰にでも、聞かせられない話を、彼女は自分にしたのである。
キクは。
自分に甘えてくれたのだ。
※
キクが、珍しく少しだけ酒を飲んだ。
まずくて好きではないと言っていたが、気分的に飲みたかったのだろう。
だが、やはり強くはないようで。
「死ぬのは……こういう時か?」
思うように動けない自分に気づいたらしく、キクは苦笑した。
彼女が、今夜死ぬことは決してない。
ダイが、送っているからだ。
夜道でよろける、彼女の腕を取る。
「悪いな……もう、絶対飲まないから」
こんなに弱いとは、思ってなかった。
困った表情は、なかなか見られるものではない。
その足が、途中で止まる。
「梅に見られるのも、シャクだな」
ぼそりと、何かを呟いた。
「むこう三日は、物笑いの種にされそうだ……どこかで酔いを覚ましていこう」
支えているダイを引っ張って、あらぬ方向へと歩き始める。
どこへ行きたいわけではなく、ただあてどなく歩きたいのか。
ダイは、彼女を支えているのか、引っ張られているのか分からない状況で、とりあえず中央広場へと向かった。
そこならば、腰掛ける場所もある。
そして、真っ暗なおかげで──誰もいなかった。
「もうすぐ満月か」
石段に腰掛けて、キクは空を見上げる。
夜空の馬は、その横顔をくっきりと浮かべていた。
「月は……少しは好きになったか?」
その視線が、馬から自分の方へと向く。
「ああ……」
これには、ダイが苦笑せざるをえない。
太陽の近衛隊長を捕まえて、月を勧めるのだから。
「でも……ダイには、太陽が似合うな」
目を細めて、キクが自分に微笑みかける。
月光を浴びた、黒に近い世界の中でも、彼女の表情はよく分かる。
ダイは、一度唇を空回らせた。
まだ、人の名前を呼ぶのは苦手なままだったのだ。
「キクは……月が似合う」
だから。
ダイは──月が嫌いではなくなった。




