心配
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ウメが──帰って来ない。
夜の自宅は、エンチェルクとキクの二人きりで、火が消えたように思えた。
帰って来なくて当たり前だ。
ウメは、ここのところ毎日、テイタッドレック卿の子息の荷馬車で、彼が逗留している貴族の屋敷へと帰っているのだから。
エンチェルクよりも、とても強い彼が一緒だから、何の心配もすることはない。
そんなことを、心配しているのではないのだ。
「おーお……また屍みたいになって」
考え込めば込むほど暗くなる彼女を、キクが茶化す。
キッと、エンチェルクは顔を上げた。
「キク先生は、心配じゃないんですか!?」
彼女の剣の師匠としての腕も、精神論も素晴らしいと思う。
だが、キクは余りに奔放過ぎた。
エンチェルクの感覚からは、とても追い付けないところにいるのだ。
「生きようとしている人間を、止める馬鹿はいないさ」
言葉の領域が違いすぎる。
エンチェルクがしている心配とは、違う次元でものを語られると分からない。
「生きるって……逆に死ぬかもしれないことじゃないですか」
あんな身体で、子供を作ろうなんて、産もうなんて──その上、結婚などしないというのだ。
どう考えても、止めるべきことと思えた。
なのに。
なのに、キクは笑う。
「生きるって……そういうことだろう?」
そして、事もなげに言ってしまうのだ、この人は。
「私は……喜んでいるんだよ、エンチェルク」
キクは、天井を見上げた。
「梅は、飛び越える気になったんだ。これまで、自分を囲ってきた病っていう柵から」
もう、飛び越せる気でいる。
何があるか、分からないというのに。
その時に、梅を守ってくれる男など、誰ひとりとしていないというのに。
「でも……何も相手をあの方にしなくても。結婚できる殿方を、何故選ばなかったんですか」
そんな、エンチェルクの悩みに。
菊は、とても愉快そうに笑いを変える。
「そんなの決まってる……どうでもいいことだからさ」
余りにひどい答えに──エンチェルクは、開いた口がふさがらなくなってしまった。
※
エンチェルクは、道場に連れ出された。
夜の道場は、真っ暗でお互いの顔も判別できない。
しかし、キクはすたすたと歩き、木剣を取って帰ってきた。
1本を、差し出される。
この暗さでも、きちんとエンチェルク用の木剣を持ってきてくれている。
何度も彼女のマメをつぶした、普通より少し軽い剣。
「生きるってことはね……」
ビュッと、風が唸った。
キクが、剣で空を切ったのだ。
どう振っても、まだエンチェルクにはその音は出せない。
「すぐそこにある死を、近くに感じている時に、初めて実感することだ」
ぞっと、した。
気づいたら、自分の喉元に、キクの木剣の切っ先があったからだ。
しかも。
キクは、その剣に殺気を込めていた。
「怖いと思えるのは、生きているからだ。悲しいと思えるのは、生きているからだ。嬉しいと思えるのもまた、生きているからだ」
すぅっと、剣が引かれる。
同時に、殺気も消えた。
「梅はただ……精いっぱい生きたいだけ……生きる裏側に死があることなんか、梅は子供の頃から身体で知っている」
ビュッ。
キクの切っ先は、再び闇を裂く。
この人たちの理論は、とてもとても難しい。
生きるために生きると言っているようにも、死ぬために生きると言っているようにも聞こえる。
「でも……もし……本当に死んでしまったら?」
おそるおそる、怖い言葉を口にする。
暗い中。
キクは、ゆっくりとこちらを向いて、剣を構えた。
構えろと言われている。
エンチェルクは、ごくりと唾を飲み込んで構えた。
「惜しんで泣くだろうね」
切っ先が、微かに触れ合う感触が、指を伝う。
笑いの振動は──そこには、なかった。
※
「ウメさん……お話があります」
宮殿に出勤した梅を待っていたのは、エンチェルクだった。
いつもとは違う気配に、梅の方が気おされそうだった。
椅子が二つ向かい合わせに用意されており、座るよう勧められる。
何事かしら。
腰を下ろすと、エンチェルクも同じように向かいに座る。
菊に鍛えられているせいで、居住まいを正した座り方を、彼女は身に付けていた。
背筋をぴんと伸ばして、梅を見るのだ。
「言っても聞いてくださらないでしょうし、さしでがましいことだと思いましたので、いままで言えないことがありました」
ヤイクが入ってきて、二人の様子を訝しそうに見ているが、エンチェルクはまったく気にしていない。
ただ、梅だけをまっすぐに見ている。
「私は、ウメさんが子供を産むことには、反対です」
どストレードに、エンチェルクは言葉を打ちこんで来た。
あら、まぁ。
梅が感心するほど、まっすぐに。
その一撃は、どうやらヤイクにも激突したようで、ぎょっとした顔をこちらに向けている。
「ですが……」
エンチェルクが、微かに言葉を緩める。
「ですが、その反対を押し切ってでも、子供を産むとおっしゃるのでしたら……私は、ウメさんがどんなに嫌がってもうやめてと言っても……!」
再び声は、どんどん強くなってゆき、最後の辺りでは、もう裏返らんばかりだ。
梅の身体が、言葉におされて後方に反ろうとする。
「心配しますからね!」
朝も昼も夜も、眠った後も。
妊婦の期間も、出産の時も、産んだ後も、育てる時も。
「ずっとずっと……心配し続けますからね!」
エンチェルクは、言葉の最後にはもう、涙目になっていた。
ええと。
宣言の内容が、余りに想像を超越していすぎて、梅は一瞬意味が分からなかったのだ。
ヤイクが、この女はバカじゃなかろうかという目で、エンチェルクを見ている。
そうして、梅は。
「それは……困ったわね」
一拍置いた後に、胸の奥から湧き上がる熱い感触に──笑ったらいいのか、泣いたらいいのか、分からなくなってしまったのだった。




