貪欲
○
自分は、きっと── 一度、死んだのだ。
梅は、そう思っていた。
夢の中で聞いた婚姻の儀式の時、既に彼女の魂はこの身を離れかけていたのかもしれない。
それを、引き戻された。
白い獅子によって。
彼は、更に目覚めた梅の唇の中で、歌を歌った。
肺に。
分厚い梅の肺に。
風が吹き込まれた。
苦しいほどの歌の風。
まるで、固いゴム風船を膨らますかのように、獅子の風が梅の肺を膨らましたのだ。
あ。
唇が離れた時。
生まれて初めて、自分がちゃんと呼吸をしていることを感じた。
吸っても吸っても苦しいはずの空気が、きちんと肺に入ってきた気がしたのだ。
ああ。
息が。
息が、出来る。
その変化は、前と比べてほんの少しだけだったのかもしれない。
しかし。
3分しか動けなかった自分が、確実に5分は動けるようになった気がしたのだ。
デッドエンドの鎖を、彼は少しだけ梅から遠ざけてくれたのである。
菊の連れてきた獅子。
あの人が、きっと桜を咲かせた男なのだろう。
死にかけた代償として、梅は前よりもほんの少しだけ健康を手に入れるという奇跡に浴した。
ほんのわずかでも、梅にとっては生死を分けるほどの大きな違い。
いまならきっと。
きっと出来る。
そう心の中で信じた時。
アルテンに──口づけられた。
※
一世一代の大バクチ。
命がけのバクチに、梅は勝つつもりだった。
子供も産み、自分も生き残る。
だが、誰の子でもいいワケではない。
そんな、梅の頭の中に浮かんだ男は──二人。
同時に、二人を思い浮かべることは、とても彼らに失礼だとは分かっている。
だが、梅は己を恋愛の渦中に置くことから、ずっと遠ざけてきた。
恋愛の先にあるものを、自分は手に入れることは出来ないのだと、そう思っていたからだ。
だから、その部分の感性は、彼女の肺と同じように、ぶ厚く鈍くなってしまっていた。
そんな恋愛音痴の袋をひっくり返して出てきたのは、たったの二人きり。
これまでの梅の人生の中で、思い当たる人がそれだけしかいなかったのである。
その一人が、アルテンだった。
彼は、そう遠くなく、自領に帰らなければならない。
そして、彼は彼の責務として、身分の釣り合う女性と結婚し、子供を作らなければならなかった。
更に言えば。
もはや、彼は都に来ることは、ないだろう。
アルテンの父親は、既にいい年だ。
彼は、自領を継がねばならなくなる。
おそらく二度と。
二度と、アルテンと会うことはない。
それを分かった上で、梅は彼に言ったのだ。
「アルテンリュミッテリオ……私に子供を授けて欲しいの」
梅の唇に、異性への愛の言葉がのったことはなかった。
そういう意味では、これは彼女にとっての、精いっぱいの愛の言葉だったのだ。
長い間、アルテンは動けずにいるようだった。
菊は、愉快でたまらないように笑っている。
アルテンは。
苦しそうに瞳を伏せた。
そして。
こう言ったのだ。
「何故ウメは……その結末を選ぶんだ……」
祝福の歌は──途切れる兆しはなかった。
※
10日ほど、祭は続いた。
祭りの間中、トーの歌が響き渡り続ける。
人々は、そのおかげで、たくさんの新しい歌を覚えた。
祝福の歌ならば、多くの人々がそらで歌えるほどになったのだ。
そして──祭は終わった。
梅は、すっかり体力を回復した。
しっかり食べなければならないし、眠らなければならない。
前より少しだけポンコツでなくなった肺と仲良くしつつ、前よりももっと強い身体が必要になったのだ。
彼女を突き落とした老女については、ダイに任せた。
いま、梅はそれどころではないのだ。
「ウメは変わったな」
ヤイクに、そう言われた。
「貪欲に生きることにしたの」
リクに渡す書類を書きながら、梅はさらっと答える。
ついに、飛脚問屋を開設するのだ。
最初は主要路のみだが、軌道に乗れば広げてゆける。
道という血管に、情報という血を流すのだ。
ウメと彼は、この目的のために動いていた。
飛脚問屋を、商売のついでに引き受けてくれる商人を、リクが見つけてきてくれたのだ。
その証書が、先日アルテン経由で届けられたのである。
「昨日……あの女と、別々の荷馬車で帰っただろう?」
書類を向いていた梅は、そんなヤイクの質問に、一瞬だけ手を止めた。
あの女とは、エンチェルクの事だろう。
いまは、遣いに出ていて、ここにはいない。
「ええ」
再び、手を動かす。
「朝……別の荷馬車で来ただろう?」
「ええ」
「どっかの領主の息子と一緒に宮殿に来るのが、ウメの言う貪欲に生きることか?」
ヤイクは、まだ子供だ。
しかし、いつまでも子供ではない。
すぐに、全てを理解する年になってゆくのだ。
梅は、顔を上げてヤイクを見た。
「ええ、そうよ」
きっぱりと、梅は少年に向けて言い放ったのだった。




