さようなら
☆
翌日が、旅立つ日だった。
前夜に梅が、「明日じゃないかしら」と言ってくれていたので、驚いたり慌てたりすることはなかったが、それでも相当朝早く起こされた。
ねぼけまなこをこすりながら、着替えを始める。
めがねめがね。
毎朝の、お約束も忘れていない。
この世界でメガネをなくしてしまったら、同じものは二度と手に入らない。
大事にしなければ。
そんな彼女の気持ちを、どうして気づけるのだろう。
昨夜、梅が端布を編み合わせて作った、メガネのストラップをくれたのだ。
器用な細い指を、感心してしげしげと眺めてしまった。
これでメガネが外れても、地面まで落下することはない。
景子は感激してしまって、思わず梅をぎゅうっと抱きしめた。
ああ、お天道様ありがとう。
こんなによい人たちと、一緒にいさせてくれて本当にありがとう。
代わりに景子は、エプロンのポケットから出てきた種を、梅に預けた。
花の種の小袋だ。
こっちで同じ品種がなければ、きっとあの女主人が喜ぶだろう。
女主人が喜べば、梅を置いておいてよかったと、もっと思ってくれるだろう。
『大事に育てます』
そう、梅は微笑んでくれた。
そして。
菊は腰に刀を差す。
これまで着てきた袴などは、布に包んで背中にたすきがけに背負っている。
景子も真似をしようとしたが、なかなかうまく回せない。
梅に手伝ってもらって、何とか背負う。
その上から。
あー。
最後まで馴染めなかったマント。
しかし、これからいつまでか分からないが、仲良くしなければならないものでもあった。
よっ、はっ、とっ。
悪戦苦闘しながら巻きつけていると。
ノッカーの音がした。
時間のようだった。
※
見送りに、女主人と梅が出てくる。
ひんやりとした早朝の空気が、景子の顔に触れた。
女主人は深々と腰をかがめ、梅も美しく頭を下げる。
「───」
アディマが、女主人をねぎらうような言葉をかけていた。
景子はただ、梅を見ていた。
頭を上げた彼女と、目が合う。
にこりと微笑む梅に、迷いなんかない。
そんなのは、最初から分かっている。
彼女は、しっかりした女性だ。
景子よりはるかに年下ではあるが、自分のことも、そして自分がすべきこともちゃんと知っている。
その上で。
別れなければならないのだ。
覚悟が決まっていないのは、景子の方だった。
微笑んだ梅が、唇を開く。
「さようなら」
美しい、とても美しい言葉。
同じ言葉が、日本にずっとあることは知っていたけれども、これほど美しい言葉として聞いたのは、これが初めてだった。
短大で習った。
さようなら──左様ならば、という言葉がちぢまったもの。
別れには、ちゃんと理由がある。
左様であるというのならば、お別れいたしましょう。
そしてまた、ご縁がありましたら、お会いいたしましょう。
決して、永遠の離別の言葉ではない。
「さようなら……またきっと……」
歩き出すアディマたちに遅れながらも、景子は振り返ってそう応えた。
菊に至っては、片手をひょいと上げるだけ。
また来るよ。
そんな簡単な離別だ。
そして、小走りでアディマたちに近づく。
泣きそうな自分を、ぐっと我慢していたら。
「サヨウナラ……」
アディマが、小さくその言葉を呟いた。
彼の心にも、残ってしまう音だったのだろうか。




