エンチェルク
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最初から、変わった人だと思っていた。
彼女は、異国の綺麗な衣装を着ていて、自分に向かってこう聞いたのだ。
『あなた……お名前は?』
低い位置の声だった。
いつも、上からの言葉に慣れていたエンチェルクにとって、それは衝撃の一瞬で。
たくさんいる使用人の一人、ではなく。
彼女は、『私』の名前を知りたがってくれたのだ。
『そう……私はウメ、よろしくね』
短い短い、この国ではありえないほど短い名前。
彼女の国に咲く、花と同じ名前だと教えてもらった。
その花を。
見てみたいと思った。
本物の花を見ることは、いまも叶ってはいないが、ウメという女性が絡んだことで、大事件がいくつも起きた。
テイタッドレック卿の子息が──別人になったのだ。
あの時の衝撃は、誰も言葉に出来ないだろう。
『ただいま、帰りました』
浮ついた癇癪持ちは、そこにはいなかった。
使用人の間では、イデアメリトスの魔法にかけられたに違いないという者までいたほどだ。
だが、時間がたってゆくにつれ、それは魔法でもなんでもないのだと分かってきた。
彼は、本当に変わったのだ。
逆に言えば、生まれ変わるほどの何かを、旅で体験してきたのだ。
そこで、出てきたのは『キク』という異国の人だった。
ウメという女性の、姉妹だという。
そしてある日。
子息は、エンチェルクの元へとやってきた。
何を言われるのだろうと、思っていたら。
『お前を、ウメの側仕えにしたいと思っているのだが、承知してくれるか?』
命令では、なかった。
命令で使われることに慣れていた彼女には、驚くべき言葉だった。
この子息を、これほどまでに変える何かを持っている異国の女性たち。
エンチェルクは、それにすっかり憧れを覚えたのだ。
『はい、喜んで』
断る理由など、一片もなかった。
※
仕えれば仕えるほど、エンチェルクは心をウメに奪われていった。
いままで会った、どんな人とも違う。
彼女は、ウメという存在に、どんどん心酔していったのだ。
この人を。
この、貴重な素晴らしい人を──何が何でも守らねば。
エンチェルクは、豪商の娘だった。
過去形だ。
父は、商売に失敗をし、いまは裕福ではない。
しかし、エンチェルクは父の羽振りのいい時代に、女性にしては良い教育を受けることが出来ていた。
だから、テイタッドレック卿の屋敷で、働けることになったのだ。
その基本的な知識が、ウメの側では役に立つ。
勿論、それだけでは全然足りない。
ウメの求める物は、彼女の知識では遠く及ばないほど高い位置にあるのだ。
だから、エンチェルクは走った。
それが、ウメには出来ないことだからだ。
がむしゃらに走り、意味の分からない文書や書物を抱え込んだ。
彼女の、役に立ちたかった。
ウメの目指す先には、何かとてつもない素晴らしいものがあるのだと──そう思えたのだ。
だが。
ウメと自分の命を天秤に載せる時が来た。
都へ向かう、荷馬車が壊れた夜。
明らかに。
明らかに、ウメの命の方の価値を、エンチェルクは大事に思ったのだ。
足も震えた。
そんな度胸、本当ならば自分にあるはずもない。
それでも。
どうしても、ウメの命を守りたかった。
ああ、ああ。
エンチェルクと。
呼んでもらえるのが、何より幸せだったのだと。
その時、初めて彼女は理解した。
生き残れたのは、本当に奇跡。
だがそれは、ウメの作った奇跡だった。
テイタッドレック卿の子息が、彼女たちを追ってくれていたのだから。
※
テイタッドレック卿の子息は──きっと、ウメのことが好きなのだ。
昔ならば、彼も無茶をしただろう。
しかし、いまの彼は、何もウメに要求はしなかった。
だからこそ、余計に本気なのだと、エンチェルクは気づいたのだ。
彼女の脳みそでも、分かることはある。
この二人が、結ばれることは、とても難しいことなのだろう、と。
第一に、ウメは都で暮らすことに決めたのだ。
一方、子息はそう遠くなく、領地に帰らなければならない。
彼は、領主になるのだから。
そして。
ウメの身体。
彼女は、とても身体が弱い。
特に、息を吸ったり吐いたりすることが、人よりも弱いのだ。
そんな身で、子を産めるのか。
エンチェルクは、他の使用人の出産に立ち会ったことがあった。
あの猛烈な痛みの中、繰り返される速い呼吸に、ウメの身体が耐えられるのか。
おそらく──無理なのだ。
子息の跡継ぎを産めない。
もしくは、命と引き換えにしか産めない。
そんな危険な結婚を、エンチェルクは認められなかった。
だから、せめて。
せめて、彼女を守れるようにと、エンチェルクはキクに弟子入りしたのだ。
いまの自分では、知能的にも余り役に立たず、肉体的にも盾程度にしかならないのだから。
心酔する人の、剣になりたかった。
盾など、一度で使い捨てだ。
それでは、今後彼女を守るものがいなくなってしまう。
剣ならば。
自分が、相手を討ち果たせるならば、一生ウメに仕えられるではないか。
だから、エンチェルクは必死に木剣を振ることにしたのだ。
両手のマメが、何回つぶれたとしても。
たとえヤイクに、この手のことであざ笑われたとしても。
エンチェルクは、自分が出来ることを、とにかく一生懸命やるしかないのだ。
ウメという──宝のために。
※
確かに、エンチェルクの両手はみっともなかった。
幾度もマメがつぶれ、赤黒く汚れてしまっているのだ。
宮殿に、確かにこの手はそぐわないかもしれない。
自分は、いいのだ。
少々みっともなくとも、平気だ。
しかし、この手のせいで、ウメが恥ずかしい思いをしてしまうのなら、何とかしなければならないだろう。
エンチェルクは、宮殿の脇にある井戸へと向かった。
熱を持ってズキズキと痛む両手を、そこで洗おうと思ったのだ。
「あ、エンチェルクさん」
涙目になりながら、手を洗っていると──呼びかけられて驚いた。
知り合いなど、ここにはほとんどいないのだから。
見ると、ケイコと呼ばれる女性が、そこにいた。
ここは、東翼だ。
彼女は、イデアメリトスの君の奥方になる方なので、ここにいても全くおかしくはない。
「あ、井戸をお使いですか……失礼致しました」
エンチェルクが、慌てて下がろうとすると。
「ううん、そうじゃないの。あなたの姿が見えたから……梅さんは元気?」
近い将来、正妃になられる方だというのに、ケイコは見事な庶民の香りを漂わせていた。
一人の護衛が付き従っているが、その事実に、困っているようにも見える。
「はい、お元気にしてらっしゃいます。新しい側仕えの方が付かれました」
言いながら、エンチェルクは少し寂しくなっていた。
今まで、ウメの側仕え──いわゆる、理解者は自分しかいないと思っていたのだ。
そこへ、貴族階級の少年がやってきたのである。
きっと彼女より賢く、役に立てるだろう。
そんな、エンチェルクの寂しい心を、見透かされた気がした。
ケイコが、困ったように微笑んだのだ。
「梅さんを、助けてあげてね。すぐ側にいる味方は、あなただけだと思うから」
目の奥が、じわっと熱くなる瞬間だった。
ウメの国の人は、みなちゃんと分かっているのだ。
ケイコもキクも、ちゃんとエンチェルクを見てくれる。
ああ。
これが──これが、報われる幸せなのか。
エンチェルクは、ウメに仕えていて、本当によかったとかみ締めたのだった。
※
手の汚れは、さしては取れなかった。
どう考えても、マメの部分が治らなければ、ヤイクの希望に沿う手にはなれないだろう。
少しずつ、硬く厚くなっていく手のひらに、エンチェルクは微かな不安はあった。
きっと、そう遠くなく、女性らしい手を失うだろう、と。
だが、それは同時に、恥ずかしくないことだとも分かっていた。
キクも、女性なのだ。
彼女の手は、一度触らせてもらったが、とても厚く固かった。
女性の手というよりは、鍛えている少年のような手。
キクは、それを何ら問題には思っていない。
そういう彼女を見ていると、エンチェルクも心を強く持つことが出来たのだ。
ただ、それは。
ヤイクには、通じない理論なのだろうが。
どうしたら、あの少年とうまくやっていけるのか。
首をひねりながら、エンチェルクがウメの執務室へと戻ろうとすると。
ギクっとした。
廊下に、ヤイクがいたのだ。
こっちを、じろっと睨む鋭い視線。
子供だが、彼は立派な貴族の風格を持っていた。
彼女の根元に、当然のように突き刺さる、階級社会の目。
エンチェルクは、小さくなってヤイクの前を通り過ぎようとした。
「おい……」
しかし、彼の目標は、最初から彼女だったのだろう。
黙って通してはくれないようだ。
おそるおそる、彼の方を振り返ると。
「うちでよく使う軟膏だ……塗っとけ」
ずいっと。
小さな壷が、エンチェルクへと突き出された。
反射的に受け取ると、ヤイクはすたすたと行ってしまった。
その後ろ姿と、壷を交互に見る。
ええと。
エンチェルクは、首をかしげかけた。
ただ、その傾いた頭に浮かぶのは──ウメの顔で。
彼女が、また何か魔法をかけたのだと。
それだけは、エンチェルクでも分かったのだった。




