ちいさな貴族
○
ふわあ。
エンチェルクが、大きなあくびをしかけて、慌てて止めた。
宮殿にある、梅用の執務室でのことだ。
東翼の一室を、彼女は頂いていた。
昨夜、随分遅くまで月見をしていたせいだろう。
最初は、びくびくしていたエンチェルクだったが、星をつないで何に見えるか、などという星座ごっこなどをしている内に、月への抵抗も大分薄れたようだ。
天文学もいるわね。
この国では、おそらくほとんど発達していないだろう学問のことを、梅は考えていた。
そんな時。
ノッカーが鳴った。
リサーだった。
あら、珍しい。
「東翼長殿、いかがされました?」
梅は、もったいぶった役職名で、彼を呼んだ。
役職と言うのは、不思議なものだ。
身分のことを考えると、名前を呼ぶのは憚られるが、役職であれば楽に口に出せる。
「一人、側仕えを連れてきた」
そんな、未来の賢者様は、不思議なことを言い出した。
側仕え?
梅は、ちらりとエンチェルクをみやる。
それなら既に、一人いるではないか、と。
「私の姉の子だ……ヤイクルーリルヒという」
リサーの後ろから出てきたのは──プチリサーだった。
これはまた、彼の一族の血がより強く遺伝したとしか思えない、立派な面構えの少年。
ははーん。
梅は、彼の意図が読めた。
リサーは、これまでもことあるごとに、梅から知識を引っ張り出したがっていたのだ。
のらりくらりと彼女がかわすので、甥を使って情報を手に入れようというのか。
要するに──スパイ。
「私は、梅よ。ヤイクルーリルヒ……よろしくね」
それが分かっていながら、梅は快く彼を受け入れた。
「……」
しかし、プチリサーことヤイクは、恨みがましい目を自分の叔父に向けるだけで、梅には何も言葉を返さなかったのだった。
※
「おい、女」
ヤイクは、やんちゃな子だった──貴族の子息的な意味で。
側仕えとして連れてこられた自覚は、一切ない。
この空間にいる女性たちを、完全に下に見ているのだ。
「私は梅、こちらはエンチェルク……あなたの先輩よ」
梅は、穏やかにもう一度自己紹介をした。
「フン……庶民の女のくせに生意気だな」
だが。
ヤイクの耳には、うるさい蝿くらいにしか聞こえていないらしい。
梅は、瞳を細めて小さい貴族様を見た。
「庶民の女に仕えるのが苦痛だと思うのなら、それを何故叔父様に言わないの?」
スパーーン!
その鼻先に、言葉のハリセンをぶちかます。
うぐぅ。
ヤイクは、息を飲んだ。
「そ、それは……叔父上様がどうしてもって言うから……仕方なくだ」
語気を弱めながら、彼は目をそらす。
「仕方なくやっていただく仕事は、ここにはありません」
スパパパパーン。
言葉ハリセンに気おされたのか、ヤイクは二歩後ろに下がった。
「い、いいのか? そんなこと言って! 叔父上様に言いつけたら、お前なんかすぐここから追い出されるんだぞ!」
虎の威を借る狐さんだこと。
後ろ盾があるおかげか、大変威勢がよろしい。
「どうぞ、言いつけに行ってらっしゃいませ」
梅は、にっこり微笑んだ。
怒りにか、ヤイクの顔が赤く染まる。
そのまま、部屋を飛び出してしまう。
「よ、よろしかったんですか?」
エンチェルクが、心配そうに梅を覗き込む。
「困ることは、何もないわ。どうなっても大丈夫よ」
言いながら、梅は二人の女性を思い浮かべた。
菊と景子だ。
身分の壁を破るのが──この世界で一番得意な二人だった。
※
ヤイクが戻ってくるまで、軽く二時間が経過していた。
自分の中のプライドや、これまでの貴族生活が、彼の心を落ち着かせるのに、それほどの時間が必要だったのだろう。
目が真っ赤になっているのは、泣いたせいだろうか。
結局。
ヤイクは、ここから離れることを許されなかったのだ。
リサーによって。
まだ、たっぷり利用価値があると思われてるわね。
実利主義のリサーが、甥のわがままを許さない程度には、彼女の脳みそは必要とされているらしい。
「ウメとエンチェルクって呼べばいいのか?」
不承不承。
こう呼べば、いてもいいんだろう。
そう言わんばかりだ。
さっき、捨て台詞を吐いて出て行ったことは、ヤイクとしては蒸し返されたくなかろう。
「改めて、ヤイクルーリルヒ……よろしくね」
梅も、鬼ではない。
そんな細かい部分を、つつき回していじめる気などなかった。
だから、彼を笑顔で迎え入れる。
「で……いま、ウメは何をしてるんだ?」
まだ、折れきれていない自尊心を振りかざす病気は、そのうち少しずつおさまってくるだろう。
「運輸組織を作ろうと思ってるの」
広げた地図には、いくつも針をつきたてている。
まずは、この都の位置。
そして、都を取り囲むようにある、4つの中季地帯の神殿。
北東の捧櫛、北西の捧剣、南東の捧舞、南西の捧帯。
それから、東の果てと西の果てにある、いくつかの港町。
この国の、大動脈の運輸網を築こうというのだ。
しかも──国庫のお金を使わずに。
商売人を使うのだ。
稼ぐ手段として。
要するに、飛脚システムである。
梅の頭の中には、ある男が浮かんでいた。
彼を、この件に一枚噛ませたいと思っている。
リクパッシェルイル。
いま、彼はどこを旅しているのだろうか。




