奔走
○
「だ、大丈夫でしょうか」
エンチェルクが、不安そうに道場の音を見る。
木剣を打ち合う音や、時折強い声が聞こえてくるせいだ。
「大丈夫よ……あれが普通のことだから」
梅は、笑いながら言った。
道場の裏手には、小さいながらに家をこしらえてもらっている。
菊は、家にはまったく頓着しなかったようで、こちらの様式のごくごく普通の家だ。
そこに、梅は移り住んできていた。
久しぶりの姉妹の生活。
エンチェルクがいてくれるおかげで、生活の上で困ったことは少ない。
ここから、毎日梅は宮殿へと仕事で通う。
幸い、内畑の側である。
そのおかげで、農林府の管理詰所が近いため、宮殿への往復に荷馬車を出してもらえることになっていた。
全ては、イデアメリトスの君の計らいのおかげだ。
梅に、仕事上の肩書はまだない。
ただ、毎日のように学者たちと顔を合わせている。
それと、より高度な技術者の育成のための制度づくり。
新しい第三次産業の商法の提案。
町ごとの、医師を確保する方法。
教福農工商のうちの、農以外の分野に、精力的に梅は動いていた。
農はいいのだ。
そこは、景子がいてくれる。
だが、農の能力が上がってくると、人口が増える。
人口が増えると、教育も必要になるし職もいるのだ。
その受け皿を作る体制が、この国には必要だった。
町を見て、学校を見て、人と話し。
身体はいくつあっても足りないのに、一人分の身体以下の梅では、それもままならない。
だが、梅にはエンチェルクがいる。
走れない梅のために走り、慣れない勉強も一生懸命してくれる。
「私も……習おうかなぁ」
そんな彼女が。
道場の方を見ながら、ふとそんなことを漏らした。
きっと。
きっと、それが梅を守る手段になるのだと──そう考えてくれたのだろう。
※
そんな梅が、一番最初に提案したのが──教育制度だった。
都や、大きな都市には、確かに学校はある。
しかし、それは裕福な家の子か、貴族の子しか通えないところで。
そこまで、本格的な学校ではなくてもいいのだが、とにかく全町で読み書き計算が出来る程度の教育施設が必要だと思ったのだ。
だが、それに国の予算を割くとなると、話が大きくなりすぎるし、決定に時間がかかりすぎる。
だから、梅は国のお金を動かさない方法を考えた。
いや。
考えるまでもない。
あったのだ。
それは、確かに過去の日本にあった制度だったのだから。
「国のお金を使わない教育……面白い話だね」
イデアメリトスの君は、ひとことそう答えた。
関係役所のお歴々は、どう反応してよいものか分からずに、お互いの顔を見合わせている。
「各町の有識者たちが、自宅で子供たちに、簡単な学問を無料で教える方法です」
いわゆる、寺子屋制度だ。
このおかげで、江戸の識字率は8割近く──当時、世界一だった。
「しかし、そんな面倒なことを引き受ける者はおりますまい」
周辺の雑音など、梅には涼やかな風だ。
「では……名誉を。学問を教える者は、その者の肩書に耳触りのよい名をつけ、一目置かれるようになさるとよろしいかと」
名誉は──タダですもの。
むかしむかしの寺子屋も、同じだった。
授業料など、まともに取るところなどほとんどなかった。
子供たちからお師匠様と慕われ、町の人々から尊敬され、役所の書類にその肩書が書き残される。
それを満足としたのだ。
「そして、評判のよい学問所は、国から褒めてあげればよいのです。そうすれば、よりよい学問所が多数出来ることでしょう」
にっこりと。
梅は、怪訝な役所の人たちに微笑みかけた。
「さて……うまくいくかな?」
イデアメリトスの君は、何かを想像しているような瞳になる。
彼女は、もう一度微笑んだ。
「宣伝の腕次第ですわ」




