礼
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暑いな。
菊は、着物の襟を正し、汗ばむ手で木剣を握り直した。
向かいに立つのは、アルテン。
彼女が、最初に剣を教えた相手だった。
すぅっ。
息を整える。
木剣を一度腰へと戻す動作をすると、アルテンもそれに合わせる。
礼。
シン、と。
暑い中、世界中が静まり返る。
一瞬、自分の耳の内にセミの声を聞いた気がした。
初夏の道場。
うるさく騒ぐセミ。
この世界に、セミはいない。
だが。
アルテンと向かい合うことは、道場の中にいる錯覚を思い出させる。
山本流の礼儀を持って戦える、唯一の相手だからだ。
木剣を構え、相撲の仕切りのように、お互いの呼吸を合わせる。
切っ先のブレが、完全に止まった瞬間。
ヒュッと、お互いの剣を振り出すのだ。
ああ。
これは、稽古だ。
打ち合うための打ち合いと、お互い分かっている。
しばらく離れていたアルテンの、腕がどれほどなまっているか、あるいは上達しているかを見ようとしたのだ。
兵士との打ち合いとは違い、手がしびれるほどの力を感じる。
遊び呆けてはいなかったようだ。
右、左、左──やはり、左の反応が少し遅い。
本人も、それを知っているので、左の時は特に注意して受けている。
踏み込んでくる。
躊躇なく。
強い面を決めようとしているのだ。
躊躇のなさが、気持ちよかった。
菊は。
その両腕が上がった瞬間、胴を打ちこんでいた。
※
「お手柔らかにお願いしたつもりですが」
脇腹を押えながら、アルテンは落ちた木剣を拾い上げた。
痛いことに対する不服というよりも、苦笑に近い様子に見える。
「お手柔らかにしたからこそ、そんな痛みで済んでいる」
礼の後、菊はアルテンの腕を叩いて応えた。
どっと。
周囲から歓声がわくが、彼女の耳にはセミの声と大差ない。
「ウメが来てますよ」
セミの大合唱の中、アルテンはそう語りかけてきた。
「ああ、だからお前が都にいるのか」
おかげで、菊はようやくその理由を理解したのだ。
護衛でもしてきたのだろう。
ついに、来たか。
ふぅと息を整え、菊は相方のことを思った。
いつか、都に行くと言った時の梅は、本気だった。
本気で、都に行きたいと願っていた。
自分の身体が弱いことを理由に、避ける道を選ばなかったのだ。
これまでの梅は、避けていた。
自分の身体では無理だと思ったことを、上手に上手に避け、そして出来ることだけを不満も言わず、一生懸命にやってきた。
その殻を、ひとつ打ち破ったのだ。
「しばらく、都にいられるか?」
菊の相手をしたがっている兵士が、そわそわと彼女の方を見ていることに気づく。
視線を彼に向け軽く頷きながら、彼女はアルテンに問いかけた。
「そうですね……そう何度も来られるところではありませんし、親戚のとこに住まいも確保しましたので、1年ほどはいられるかと」
1年!
菊は、ニヤリとした。
「上出来だ……1年、私の道場を手伝ってくれると助かるんだが?」
来月には、道場が完成する。
そうすれば、山本流の剣術を教えられるのだ。
その際、アルテンといういい見本があると、菊は非常に助かるだろう。
「キクについてこられる者が……何人いるのやら」
彼は、苦笑しながら、自分の手の木剣を次の兵士へと渡す。
「追い越されないように、お前も注意しろよ」
ひと通り笑いをおさめた後、菊は兵士と向き合ったのだった。




