裏路地
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イデアメリトスの太陽──この国、唯一と言っていい宗教的存在のいる都。
菊は、ついに都に足を踏み入れた。
門をくぐる時、一緒にいたのはトーと──ダイ。
菊とトーは、徒歩で旅をしてきたのだ。
御曹司は、彼らのために荷馬車を準備しようとしたが、丁重に断った。
元々、都へは行くつもりだったのだ。
当初の予定通り、徒歩で続ければいいではないか。
その奔放さは、どうやら御曹司を困らせたようだ。
そこで。
彼は、ダイを徒歩で同行させることにしたのだ。
菊は、その判断にニヤリとした。
これならば、護衛兼案内と言う名の元に二人を監視出来るし、菊もダイに恥をかかせないだろうと読まれたのだ。
元々、逃げるつもりはないので、彼女にとってはどっちでもいいのだが。
不思議な三人旅だった。
トーは、しゃべりたい時に勝手にしゃべる男だし、ダイは元々余りしゃべらない。
菊は、この方向性の違う二人を、無理につなげようとはしなかった。
まさに、適当にほったらかし。
新しい町についてトーが歌いだせば、そこに数日とどまるが、菊は好き勝手に歩きまわった。
ダイは、監視をしているんだか歌を聞いているんだか、トーの歌うところにいつもいて。
トーという男が、一体何者なのか、ダイなりに知ろうとしたのかもしれない。
そんな奇妙な旅も、ついに終わる。
「では、宮殿へ……」
ダイは、そのまま目的地へ連れて行こうとしたのだ。
だが。
トーは、視線を巡らせていた。
目で見ながらも、その両の耳で音を拾っている動き。
そして、すたすたとダイの望む方向とは、違う方へと歩き出すのである。
「宮殿は……歌の後だろうな」
ダイを見上げると、彼はさすがに渋い顔をした。
都まで来ていながら、宮殿を無視する形はさすがにまずいのだろう。
「ああ、そうだ……いい方法がある」
菊は、ふと思いついたことを、ダイに言うことにした。
「その、イデアメリトスの太陽とやらが、町に歌を聞きにくればいいじゃないか」
我ながら、名案だったが──ダイにはそうではなかったようだ。
※
トーは、初めて来た町の裏路地を歩く。
菊は、都の散策も兼ねて、彼の後を追って歩いていた。
ダイは消え、代わりに兵士がついてきている。
所在だけは、押さえておこうというところか。
そして、ダイ自身は、宮殿に報告に行って叱られているのだろう。
彼らを、まっすぐ連れてこなかったことについて。
トーは、小さな歌を口ずさみながら。
淀んだ空気を動かすように、そこにたまる何か悪い物を一緒に吹き流すように、呪文のように歌を寄り添わせるのだ。
光が大きいと、影もまた大きい。
この国の都というだけあって、町の規模は大きく、人もたくさん住んでいる。
その分、不遇な者も多いのだ。
不遇な者たちは、日蔭の部分に集まってくる。
「おや……もう夜かい?」
ぼろの服をまとった老婆が、足を止めた。
その両のまなこは白く濁り、もはやほとんど何も映してはいないだろう。
「夜風の歌を歌っている」
舌を、2枚持っているのかと疑いたくなる。
トーがそう語る間にも、歌は途切れないのだ。
「そうかい……もう夜になったかと思ったじゃないか……ああでも、本当に涼しいねぇ」
老婆の表情が、幸せそうに緩む。
トーは、歌を変えた。
老婆にだけ聞こえるように、囁くように歌い始める。
一瞬。
この路地が、寺院になったかのような錯覚を覚えた。
あの静謐さが、トーの囁きの中から生まれたのだ。
「ああ、そう……もうすぐなんだね。大丈夫だよ……私には残していくものは何もないからね……」
歌声は、老婆にとっては違うものに聞こえたのだろうか。
濁った瞳で、空を見上げる。
「それより、さっきの歌を歌っておくれ……暑いのはこたえるんだよ」
老婆の要求に、トーは──微笑んだ。
歌は戻り、彼はまた歩き始める。
無欲だから、タチが悪いのだろうな。
そんな彼を見て、イデアメリトスの苦悩を、ほんのちょっとだけ菊は理解した気がした。




