梅の旅路
○
「大丈夫ですか?」
エンチェルクが、冷たい水に布をひたして来てくれる。
それを受け取りながら、梅は木陰で力ないため息をつくのだ。
「ええ……平気よ」
山本梅は、生まれて初めて旅に出た。
旅と言っても、自分の足で歩く旅ではない。
荷馬車に揺られるだけの、ぬるいものだ。
しかし、それさえも彼女にとっては、大変なものだった。
テイタッドレック卿の領土に行った時のことを思い出せば、それがどれほど無茶なものか自分でも分かっている。
けれども、行くと決めたのだ。
一通の書状が、イエンタラスー夫人の元へと届けられた。
それは、イデアメリトスの若君からのもので。
梅を、都へ招きたいというものだった。
夫人は、反対はしなかった。
ただ、彼女の身体の心配をしてくれただけ。
ああ。
梅の唯一の後ろ髪は、イエンタラスー夫人だった。
彼女は、これからまた一人になるのだ。
楽しく安全な時を、これまで数多く夫人からもらった。
その恩は、梅は一生忘れないし、国の手伝いをするという別の形で返そうと考えていた。
そして──出発の準備をしている中、夫人から荷物が部屋に届けられる。
ひとつは、手紙。
手紙には、都で困った時に訪ねるようにと、イエンタラスー夫人の知り合いへの紹介状が添えられていた。
もうひとつは。
梅が、この世界に初めて来た時に、着ていた着物だった。
夫人は、これをとても気に入っていたというのに。
梅は。
その着物に着替えた。
襟、袷、袂、裾。
全てを整え、美しい直線を描く。
三つ指をつき、深い御礼とお別れの挨拶をするのに、これほど相応しい衣装はないと思ったのだ。
※
そうして、梅の都への旅は始まった。
イデアメリトス直々の召集ということで、荷馬車と護衛は兵の詰め所から出された。
梅は、それに乗っていればいい。
ただ、側仕えとしてエンチェルクを連れて行くことを、アルテンに手紙でしたためておいた。
彼女がいなければ、梅の旅路はもっと過酷なものになっていただろう。
何しろ、彼女の身体は本当にポンコツで。
ちょっとした疲れで、すぐに動けなくなってしまうのだ。
荷馬車に横になっているだけだというのに、どうして消耗できるのか、自分でも不思議だった。
そんな時には、エンチェルクは荷馬車を止めさせ、兵士に梅を外に抱えて出るよう頼むのだ。
「外の空気をいっぱい吸えば、気分が楽になります」
実際、彼女の言う通り、外で座っているのは心地よかった。
おそらく、車酔いに似た症状も併発していたのだろう。
いつの間にか、木陰でぐっすり眠っていたこともある。
気づいたら、荷馬車の中で揺られていた。
「気持ちよく眠られてましたよ」
にこにこと。
そして、エンチェルクは、お日様のように笑うのだ。
「都へ行けるのは、本当は嬉しいんです」
少し気分のいい時。
彼女は、そんな話をした。
「都なら親戚もいますし、家族とも会おうと思えば会えるところですから」
エンチェルクの出身は、都よりもう少し南だ。
「問題は……こんなに早く戻ったことが分かったら」
ふと、彼女は不安そうに表情を曇らせる。
「お屋敷をクビになったと勘違いされそうで……」
両親の怒りでも想像したのだろうか、エンチェルクはぶるっと首を震わせた。
その時だった。
ガタンッ。
荷馬車が、大きく不自然に揺れたのだ。
そのまま、妙な角度に傾く。
「な、な、なに?」
エンチェルクは、外へと飛び出して行った。
幌程度では、声は遮れない。
梅は、外のやりとりを静かに聞いていた。
どうやら。
車輪が壊れたようだ。
※
護衛の兵士は二人。
一人が、馬を荷馬車から外し単騎で次の町へと走り、替えの車輪と職人を連れて戻ることとなった。
それまでは、この峠の途中で、のんびりと待っているしかないようだ。
傾いた荷馬車に乗っているわけにもいかず、梅は街道の脇で休むことにした。
エンチェルクが、甲斐甲斐しく膝かけを持ってきてくれる。
「ついてないですね」
あーあ、と彼女は動けなくなった荷馬車と、残された兵士を見る。
短い旅路の間、エンチェルクは兵士と仲良くなっていた。
彼女は、身分こそ平民ではあるが、それなりによい生まれのようだ。
でなければ、領主の屋敷で側仕えとして働くことは出来ない。
そんなエンチェルクだが、低い階級の兵士と話すことは、まったく抵抗がないように見える。
「だって、その方が都合がいいでしょう?」
彼女は、そうニコニコと笑うのだ。
「長い旅ですもの。仲良くしておけば、いつでも気軽に『助けて』って言えるじゃないですか」
可愛らしい打算だった。
梅が、ついぷっと吹いてしまうほどの、堂々とした打算。
「あなたには、感謝しているわ」
旅の中で、『助けて』と言わなければならないことの多くは──梅のことだ。
「ええ? か、感謝って……」
話の流れについていけず、彼女はおろおろとし始めた。
その様がおかしくて、またくすくすと笑いながらも、梅はふと自分を振り返った。
梅は、『助けて』と言わなくなっていた。
この病は、ただ苦しいだけ。
いまのところ、死んだことはない。
じっと我慢をしていれば、そのうちよくなる。
そんな病に、他人の手を煩わせるのがいやだったのだ。
「食事でもとりましょうか……兵士さんも一緒に」
あの兵士が、彼女らの護衛についたのは、偶然。
しかし、この縁がどこに続いているかは分からないのだ。
人のために、誰かの助けを必要とすることもあるだろう。
だから。
『助けて』と、言うための可愛い打算を──梅も少しだけ覚えてみたいと思った。




