キク
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「あ、ダイ」
図体の大きな彼を、菊は見逃さなかった。
彼は、ちょうどあてがわれている自分の部屋へ、入ろうとしているところで。
「ちょっと、お邪魔していいか?」
言いながらも、菊はあっさりとダイの部屋へと入りこむ。
彼は、相変わらずだなとでも言いたげに苦笑しているが、菊を拒むことはなかった。
それが、心地よい。
戦うという意味では同じ面にいるが、立場や感覚は遠い面にある。
遠い面にありながら、拒まれないというのは──こんなに心地よいものか。
「昨日……屋敷へ誘ってくれてありがとう。おかげで、トーを御曹司の前に引っ張り出せた」
この結果のきっかけは、ダイが作ってくれた。
いや。
彼だからこそ、作りえたものだ。
御曹司の部下でありながら、菊という人間を信じてくれたおかげである。
忠誠と、他勢力への信頼は相反する。
命の奪り合いが起きていても、おかしくはなかった。
それを、ぎりぎりのところで、ダイはつなぎとめる役割を果たしたのだ。
「……あまり無茶をするな」
返事は、ため息だった。
次は、こうはいかない。
次こそ、斬り合うことになるぞと、そう言いたいのだ。
「あははは……でも、もしダイと斬り合うことになったら、それはそれで光栄だと思ってるよ」
正真正銘、自分が漢と認めた男と戦える。
それは、戦う者にとっては幸福なことではないか。
ダイは、更に深いため息をついた。
そんな彼が、菊の方へと近づいてくる。
「馬鹿にする意味でもない、蔑んでいる意味でもない」
何故か、ダイが不思議な前置きをした。
何を言おうとしているのか。
菊は、計りかねて視線を上へと向ける。
「お前は女だ……」
ダイの言葉に、彼女は微かに首を傾けた。
何故、そんな当たり前のことを言うのか──と。
※
「私は女だが……それがどうかしたか?」
多少、そこに拘りがないわけではない。
弟が生まれたことで、自分の性別を浮き彫りにしたこともある。
しかし、菊は女である自分を、別に嫌ってはいなかった。
これまでもこれからも、うまく付き合っていくつもりだ。
「ああ……そうだな……どうかしたわけじゃない」
ダイが、ぽりぽりと自分の額をかく。
その大きな手。
女である菊には、確かにないものだった。
「あ……いや……」
彼は、うまく言葉を探せないようだ。
珍しく長い言葉をしゃべっていたせいか、ダイの言語中枢は売り切れになってきたのか。
「女だから、あまり無茶するなって言ってくれたのか?」
笑いながら、菊は言葉を補完してやろうとした。
言われ慣れない言葉ではあるし、余計なお世話ではあったが、何故かダイが言うと素朴な心配に聞こえる。
「いや……多分……違う」
彼は、考え込んだ。
濁った水の中に落としたものを、手探りで拾うかのように。
「無茶をすると……困る」
何を、その手に掴んだのだろうか。
ダイが、自分の言葉にさえ怪訝そうな音で、とつとつと言葉を紡ぐのだ。
「はぁ?」
つながりが分からずに、菊は語尾を上げてしまった。
「お前が無茶をすると……オレが困る」
ダイの目は、静かなままだ。
真面目に、拾い上げたものの破片を、ひとつずつ読み上げているだけ。
彼女は、頭の中でこれまでの破片を組み立て始めた。
菊は女→無茶をするな→ダイが困る。
あー。
何となく分かったような、分からないような。
多分、ダイの方がよく分かっていない。
「それなら、またダイを困らせることになると思うぞ……悪いな」
微かな幸福にも似た感情が、菊の中をぐるりと巡った。
ああ、自分の中にもこんなものがあったのか。
初めて出会う感情を持て余しかけ、菊は適当に挨拶を済ませて部屋を出ようとした。
なのに。
「キク……」
呼び止められた。
※
「キク……」
何だ。
綴られた自分の名前に、彼女は足を止めていた。
何だ、ちゃんと発音できるじゃないか。
彼女の名前を発音できる確率は、半分以下。
いままで、身近な人間できちんと彼女を呼べたのは、アルテンくらいだった。
そして、気づいた。
初めて彼に、名前を呼ばれたことを。
寡黙な男だし、必要なこと以外余りしゃべらないし。
それでも、彼女の名前はちゃんとダイの中にあったのだ。
しかも、とても正しい音で。
「ありがとう、ダイエルファン……私も、ちゃんとお前の名前を覚えてるぞ」
振り返って、覚えている音をなぞってみた。
ダイは。
微かに、苦い笑顔になった。
どこか、自己嫌悪しているようにさえ見える。
何を嫌悪する必要があるのか。
彼は、素晴らしい男だ。
大地にしっかりと両足を踏みしめ、一歩一歩歩いてゆく男だ。
御曹司に必要とされる限り、ダイはどこまででも自分の力で登ってゆくだろう。
そんなこと、最初から分かっている。
対する菊は、この世界に来てから特に、軽くあろうとした。
もはや、祖国でのしがらみはなく、彼女はただ菊という一個人として、この世界で生きていけるのだ。
それを、心行くまで満喫している。
ダイを困らせるほどに。
だが、きっとこれからも、菊は自分が選び取った道を歩いてゆくのだ。
まだ。
まだ、菊は行かねばならない。
この身の内にある、若い衝動がゆるやかになるまでは。
「もうしばらく……困っててくれ」
ようやく、菊はそう言えた。
いまは、これしか言えなかったのだ。
「ああ……そうするしかないか」
キク、と。
たった一度しか呼ばなかった唇が──呆れた笑いを浮かべた。




