是でもなく非でもなく
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イデアメリトスが、敵とみなす相手を前に──叔母が眠ってしまった。
ありえないことだ。
こんな場面で悠長に寝るなど、おそらく自身でも許せないほどの失態だろう。
これが、彼の魔法か。
だが、歌を聞いた者に等しく効くものではないようだ。
現にアディマは、眠くはならなかった。
不思議な心地よさには、抗わなければならなかったが。
アディマは、まっすぐにトーと呼ばれる男を見据えた。
「単刀直入に聞かせてくれ……君は月の者か?」
害意はない。
怯えもない。
怒りもない。
だが──そこにいる。
そこにいるのが何者なのか、彼は知らねばならなかった。
トーは、目を閉じる。
「そうであって……そうではない」
だが、唇は開いた。
「私は、永く一人であろうとした。永く歌うまいとした」
目は閉じられたまま。
詩を読むように力強い流れの言葉が、音をたどる。
音を司る者、と言った方が正しいのか。
耳を傾けずにはいられない、言葉の中に抱えこまれる魂の響き。
「私には太陽が必要で、人々には夜が必要で、夜は人々に愛される必要があった」
物語仕立ての歌が、アディマの中を流れて行く。
トーが語るごとに、昼と夜の景色が目まぐるしく移り変わるのだ。
「だから、私は歌いに来た。必要な人が聞いて行くだろう。必要でない者は立ち去るだろう。それでいいのだ。それでいいと、この娘が言った」
目が、開いた。
緩やかに始まった歌は、彼の言う『この娘』で閉じられたのだ。
トーの隣にいる、キク。
小さな、風を起こす者だ。
ケイコもそうだった。
その小さな異国の風が、アディマを動かし、トーを動かす。
「歌うことで、命を奪われるとは……思わなかったか?」
アディマは──キクの風の、真正面に立った。
※
「いつか、私を殺す者が来る」
トーの言葉に、淀みはない。
アディマが、自分を消すつもりで来たことは、最初から知っているかのように。
「私が歌うと、世が荒れる。だが、私がここに生きている以上、荒れることが自然なのだ。だから私は……荒らしに来た。この昼の世を」
詩は続く。
彼は、黙ってトーの詩を聞いていた。
「私は、ただ死ぬまで歌うのみ」
死ぬまで。
そうか。
トーにとっては、どういう『死』であれ、死という名の自然の産物なのだ。
それがたとえ、人の手によってもたらされるものであれ。
言いかえれば。
彼は、誰かに殺されて死ぬその時まで、歌う事に決めたのだろう。
見事な、命の詩だった。
殺すには惜しいほどの。
アディマは、考えていた。
この男を見てから、思考を大樹の枝のように高く広く伸ばしていた。
キクと引き離しさえすれば、殺すのはたやすいだろう。
おそらく、あっけないほど簡単に殺すことが出来る。
彼自身、既に死を受け入れているからだ。
だが、逆にまな板の上に乗って寝転がられると、包丁を気軽に降り下ろせなくなる。
それを、父は甘さだと言うだろう。
しかし、同時に父もここで考えたはずだ。
敵対する意思もなく、敵対勢力にいる様子もない。
こちら側に引き入れれば、殺す以外の使い方がある。
いっそ。
イデアメリトスの、神官にする手もあった。
どれだけ民が彼に心酔しようとも、結果的にその後ろにあるイデアメリトスを崇拝することなるのだ。
だが、それを決定できる権限は、いまのアディマにはない。
権限を持っているのは。
「イデアメリトスの太陽に……会う気はあるか?」
アディマは、目を閉じた。
この答えが、トーの命の分かれ目。
「それが、自然の流れならば」
是でもなく、非でもなく。
彼は、ただ──命の真ん中を流れて行った。




