夜に酔う
部下は、先に支部へと向かわせた。
ダイは、黙ってキクについて歩く。
ヤマモト・キク。
最初の別れの時、彼女は自分のフルネームを語ったのだ。
短い名前だった。
この国の名前の形と、それは明らかに違う。
だが、名乗る彼女の唇には、誇りがあった。
だからこそ、長い間会わなくても、ダイの意識にはその名がしっかり刻まれていたのだ。
刻まれてはいるが──呼んだことはない。
人の名を呼ぶのは、この国ではいろいろ難しい。
都に出てからはなおのこと、ダイは人の名を呼ばなくなった。
田舎にはほとんどなかった、たくさんの上下の壁が、彼をそうさせたのだ。
さして、親しい付き合いをする者もいなかった。
頂点にいるのが、イデアメリトスの君。
それだけを、覚えていればいい。
そんな大きな線だけ引いて、物を考えるようにしたのである。
隣を歩くキクを見る。
共に歩くと、彼女の方から心地のよい風が吹いてくる気がする。
そんなキクにのみ、意識を取られているワケには、いかなかった。
ダイの耳に、微かに何かが届いてきたからだ。
「あぁ……やってるな」
彼女は、風に乗って届くその音を、目で見るかのように視線を上げる。
一歩進むごとに、少しずつはっきりしていくその音は。
静かな、歌だった。
「昨日から、下町の広場で歌っている」
細い路地に入って。
そして。
抜けた。
大勢の民が、そこにいた。
思い思いに好きなように、座っていたり立っていたり。
それでも、広場は足の踏み場もないほどだ。
だが、静かだ。
中心で歌う男の声が、余りに静かなため、それを決して邪魔しないように、誰もおしゃべりなどしていない。
ただ、歌声に耳を傾けている。
そして──そこにいるみなの表情は、穏やかでにこやかだった。
※
自分が何を見ているのか、聞いているのか、よく分からなかった。
年寄りや子供は、次第にうつらうつらし始める。
荒っぽい仕事帰りの男でさえ、ただただ心地よさそうに目を細めている。
これは、何だ?
中心に立つのは、真っ白い髪の30歳ほどの男だった。
声と同じように、穏やかな表情を浮かべている。
彼は、自分の中にある楽器をかき鳴らすように歌うのだ。
低い男の声が、異様な安心感を広場中に広げて行く。
「日が暮れる」
キクが、小さく呟く。
ああ、そうだ。
日が沈む。
人々は、帰らねばならない。
帰るべき時間だ。
荒くれ者は、酒場に繰り出すだろうが、普通の人々は足早に家に向かう時間。
なのに。
薄暗くなってゆく広場に、立ち上がる者はいなかった。
日が沈みきると。
歌が、変わった。
何故か、歌い出しだけで夜の歌だと、すぐに分かった。
そこには不吉はなく、恐れもない。
男は、足音さえ立てずに、ゆっくりと動いた。
ダイの方へと。
人々は、彼を目で追わない。
ただ、耳で追う。
戦う者としても、おそらく一流と思える気配と身体が、ゆっくりとダイの──いや、キクの方へと歩み寄る。
彼は、彼女を呼んだのだ。
キクは、肩をそびやかした。
「蛇足だと思うけどね」
唇の中で、不可思議な言葉を呟いた後。
キクは、腰から横笛を抜いたのだ。
風の音が、した。
その笛から、彼女は微かな風を生みだしたのだ。
風に、声が絡む。
音が練り合いながら、広場を縫っていく。
耳を奪われていると、ここがどこなのか分からなくなってくる。
夜なのに。
夜であることに──酔いそうだった。
※
人々が、立ち去ってゆく。
「おやすみなさい、良い明日を」
多くの人々が、男に声をかけ、指先を触れあわせ──目に涙さえ浮かべる者もいる。
うちに泊っていってくれと、懇願する者が数名残る頃。
ダイは目を閉じて、己の酔いをさまそうとしていた。
もっと、暴力的な魔法というものを想像していたのだ。
彼は、その身に魔法を受けたことがある。
祭りの時、ケイコの部屋のドアの番をしていた時のことだ。
不思議に思うことも、あらがうことも出来ずに、彼は眠らされた。
イデアメリトスの魔法の前では、ダイなどただのデクなのだ。
それほど、暴力的なものだった。
しかし、この歌は違う。
聞かないという選択肢も、歌にあらがうことも本当は出来る。
だが、聞きたいと思わされるのだ。
類まれな歌い人と言ってしまえば、それで終わりかもしれない。
少なくとも。
彼が、この仕事をしていなければ、魔法の力を含んでいるなんて考えもしなかっただろう。
「ダイ……彼は、トーだ」
そして──ついに、男と引きあわされた。
ダイは、ゆっくりと目を開けて、白髪の男を見る。
精悍ではあったが、攻撃的ではない。
穏やかではあったが、中心に鋼よりも固い何かがある。
彼は、キクに似ている気がした。
二人とも、何かを求めているわけではないのだ。
自分が、自分らしくあろうとしているだけ。
だが。
ダイは、斬れと命じられれば、斬らなければならない。
この二人を。
すぅっと、息を吸った。
「領主の屋敷に、彼女がいる。彼女は、お前を心配している……」
彼は、紹介された男から、キクへと視線を移した。
へぇ、と彼女は目を細める。
「トー……領主の屋敷に行こう。きっとそこには、いい事と悪い事が待っている」
楽しげだ。
悪いことも、キクにとって障害ではないのだろう。
「そうか……分かった」
男は、無条件にキクを信頼しているようだった。
ダイは、苦笑した。
これではまるで、自分たちが悪者のようだ、と。




