夜話
☆
「元気そうだね、ケイコ」
人払いされたアディマの部屋。
ロジューに、部屋まで送ってもらったのだ。
『年下に偉くなられると、腹が立つものだな』
彼女は、とても分かりやすい理由で立腹していた。
これまで彼女より偉いのは、君主である兄だけだったのだろう。
既にアディマは、正式な世継ぎとして認められたという。
そうなると、順序的に君主、アディマ、ロジューということになるらしい。
だから、アディマの頼みを断れない──というのは、建前だろう。
景子を送ることもきっと、心底嫌なことではないのでやってくれたのだ。
「アディマも元気そう……ね?」
近づいてくるアディマが、優しく彼女を抱き寄せる。
景子の言葉が、疑問形になったのは、そんな彼の行動に思うところがあったからではない。
彼女を抱きしめながらも、何か気になることがあるような様子だったのだ。
「大丈夫?」
胸元に埋めていた顔を、真上に持ち上げて彼を見上げる。
光はいつも通りなので、体調が悪いというわけではなさそうだ。
「大丈夫だよ……ケイコ」
もう一度、ぎゅっとされる。
上の空ではない。
腕の中で、彼女の形を確かめるように抱きしめるアディマは、他にも考えなければならないことがたくさんあるのだ。
この国を、継がなければならないのだから。
「ケイコ……今日は、このままこの部屋にいておくれ。普段、一緒にいられないのだから、ゆっくり話をしよう」
それでも。
彼は、その貴重な時間を、景子と共に過ごそうと願ってくれるのだ。
彼女もまた、アディマの身体をぎゅうっと抱き返した。
話したいことは、たくさんたくさんあった。
一晩では、到底足りないほど。
大半は、彼にとっては取るに足らないことだろう。
それでも、アディマの心が少しでも晴れるなら、景子はそうしたいと思ったのだ。
※
「農林府でね……」
景子は、とりあえずアディマの興味のありそうな話題を口に出してみた。
畑に水を張るための治水の話や、連作障害解消のための話を、彼女は夢中になって話したのだ。
自分の好きな話のせいで、どんどん言葉に熱がこもってゆく。
最近、本当に仕事がしやすい気がした。
温室の報告書も、別の部署の目にとまったらしい。
ロジューのところに、今度農林府から視察団が向かうという。
暑季地帯でしか取れない薬草などを、都の近くで栽培するために活用したい──話が、いろんな方向に膨らんでいた。
「室長も、最近あまり怖くないから、仕事場の居心地がいいの」
にこにこしながら、景子は順調な仕事をアディマにアピールした。
農林府に入れたことを、彼が喜んでくれると嬉しいと思ったのだ。
「そうか……よい上司に恵まれたね」
ソファの隣に座るアディマの金褐色の目が、一度細められた後、微かに何かを考える瞳に変わる。
「室長は、何かケイコに言ったかい?」
ふと。
彼の唇が、不思議なことを言った。
???
質問の意味が分からない。
「ええと……仕事の話くらいしか……あ、一回だけ結婚しているかどうか聞かれたかな」
さして多くはない、室長との記憶を、景子は軽く掘り起こしてみた。
「アディマの叔母様の勧めで、結婚したことにしているので……そう答えておいたんだけど……」
だ、だめだった?
景子は、ちょっと心配になりながら、彼を見た。
アディマは、穏やかに目を細める。
「ああ、聞いたよ。便宜上とは言え、嘘をつかせてしまっているね……すまない」
彼は、もう室長の話は出さなかった。
ただ、優しく肩を抱いてくれる。
不甲斐ない自分自身を、厭わしく思ったのかもしれない。
「嘘は苦手だけど、アディマとの子供を授かったのは、すごく嬉しいのよ……それは本当」
にこにこと、景子は笑ったのだ。
けれども──暗雲は、すぐそこに近づいてきていた。
※
暗雲は。
菊だった。
景子が、ロジューの噂で菊らしい人が出てくることを、アディマに言ってしまったのだ。
それが、悪いことだとは思いもせずに。
だが。
「彼女が、歌の男と一緒に?」
彼の表情は、一瞬で曇ったのだ。
「違うかもしれないんだけど……」
景子の唇も、我知らず重くなる。
既にもう、心の中では『違うといいな』まで進化し始めていた。
アディマの表情は、それくらい重いものだったのだ。
「彼女のことだから、どんな不思議な人とでも、気楽に旅をしているんだろうね」
不思議な人。
その部分に、奇妙なアクセントを感じた。
そこに、地雷が埋まっている──そんな気配。
せっかく、アディマと楽しい時間を過ごすはずだったのに、どうにもうまくいかない。
彼が、何かを喉に詰まらせたまま、飲み込めずにいるからだ。
景子とどんな明るい話をしていても、その喉の異物感がアディマを憂鬱にさせるのだろう。
「わ、私に話せることなら話して。出来るだけ力になるから」
政治のことは、景子には分からない。
けれども、菊のことなら少しは分かるのだ。
アディマは、ソファに背を預けるように沈み込むと、上を見上げた。
「魔法を、イデアメリトスのものだけにしておくのが、本当はとても難しいことなんだと思ってね」
上を見上げたまま、瞳が景子の方へと動かされた。
どきっと、した。
彼女自身も、魔法に似たような奇妙な力があるからだ。
アディマは、それを知っている。
彼は、景子の魔法を知った時に喜んだ。
しかし、そんな単純な話ではないのだと、瞳が彼女に教えてくれた。
魔法の君主の統べるこの国は、他に魔法を使う者がいてはならないのだろうか。
そうだというのならば。
景子もまた、危険な因子ということになるのだ。




