たった一度
☆
室長が出勤してきたのは、それから三日後だった。
相変わらずの青く痩せた身体ではあるが、光が安定しているのを見て、景子はほっとしたのだ。
「ケーコ・ヨシイ・ハナヤ」
席についてしばらくして、低い声が彼女を呼んだ。
「は、はい」
彼女は、慌てて席を立つ。
向かいの席のネイディは、既に頭を抱えていた。
おそらく、先日の件についての小言でももらうと思っているのだろう。
景子は、それでもニコニコと上司の前に立ったのだ。
「以前、提出された連作障害に関する書類について、税務府から詳しく説明して欲しいという要望を受けている」
だが、話の内容は違うものだった。
随分前に出した、書類の話なのだ。
ここ三日、室長は病気で仕事をしていないはずなので、彼女がロジューに拉致されている間に、その話は出ていたのかもしれない。
「はい、いつにしましょうか」
そんな景子の歯切れのよい返事に、しばし彼は黙った。
そして、じっと彼女の顔を見るのだ。
「……君は、確か三十を越えていたな」
突然。
あの室長が、不思議な発言をした。
それに、部屋中がざわめく。
つい振り返ると、ネイディが椅子からひっくり返りそうになっていた。
「は、はぁ……まぁ」
周囲の驚きの視線を、やや恥ずかしく思いながら、景子は遠まわしな肯定をした。
「結婚は、していないと書類にはあったが……」
税務府と、それが何の関係があるのだろうか。
「あ、いえ、実は先日……人の紹介で結婚しました……」
頭に思い浮かべるのは、スレイ──ではなく、アディマ。
人にどう見られようとも、景子の中で思い描けるのは彼だけだった。
ますます、室内はどよめいた。
ガシャン。
ネイディは。
椅子から本当に転げ落ちていた。
汗をかきながら、彼女は室長の方を向き直る。
「そうか……」
それきり。
二度と、彼はそんな話をしなかった。
たった一度だけ室長と交わした、仕事以外の話だった。




