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たった一度

 室長が出勤してきたのは、それから三日後だった。


 相変わらずの青く痩せた身体ではあるが、光が安定しているのを見て、景子はほっとしたのだ。


「ケーコ・ヨシイ・ハナヤ」


 席についてしばらくして、低い声が彼女を呼んだ。


「は、はい」


 彼女は、慌てて席を立つ。


 向かいの席のネイディは、既に頭を抱えていた。


 おそらく、先日の件についての小言でももらうと思っているのだろう。


 景子は、それでもニコニコと上司の前に立ったのだ。


「以前、提出された連作障害に関する書類について、税務府から詳しく説明して欲しいという要望を受けている」


 だが、話の内容は違うものだった。


 随分前に出した、書類の話なのだ。


 ここ三日、室長は病気で仕事をしていないはずなので、彼女がロジューに拉致されている間に、その話は出ていたのかもしれない。


「はい、いつにしましょうか」


 そんな景子の歯切れのよい返事に、しばし彼は黙った。


 そして、じっと彼女の顔を見るのだ。


「……君は、確か三十を越えていたな」


 突然。


 あの室長が、不思議な発言をした。


 それに、部屋中がざわめく。


 つい振り返ると、ネイディが椅子からひっくり返りそうになっていた。


「は、はぁ……まぁ」


 周囲の驚きの視線を、やや恥ずかしく思いながら、景子は遠まわしな肯定をした。


「結婚は、していないと書類にはあったが……」


 税務府と、それが何の関係があるのだろうか。


「あ、いえ、実は先日……人の紹介で結婚しました……」


 頭に思い浮かべるのは、スレイ──ではなく、アディマ。


 人にどう見られようとも、景子の中で思い描けるのは彼だけだった。


 ますます、室内はどよめいた。


 ガシャン。


 ネイディは。


 椅子から本当に転げ落ちていた。


 汗をかきながら、彼女は室長の方を向き直る。


「そうか……」


 それきり。


 二度と、彼はそんな話をしなかった。


 たった一度だけ室長と交わした、仕事以外の話だった。


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