ただの自己満足
☆
到着した家は、いかにも中堅貴族の屋敷だった。
現れたのはうら若い女性。
しかし、彼女は景子やネイディが農林府の役人であることを確認し、使用人によって運び込まれる室長を見た後、つまらなそうにどこかへ消えてしまったのだ。
最初に現れたということは、この屋敷の名代を預かる立場だろうに。
「室長は、長男じゃないんだよ」
景子が怪訝な顔をしていると、ネイディが小さくぼそりと補足してくれた。
ああ、そうか。
長男以外、貴族の名を継げないのだ。
この様子を見れば、彼は兄の屋敷に、居候という形を取っているのだろう。
「既に、父親も母親もいらっしゃらないからね、室長は。生きていれば、次男にも屋敷のひとつくらい与えたんだろうけど」
ネイディは、貴族名鑑でも持っているのではないかと思えるほど、妙な知識がある。
ロジューを、日向花の名で呼んだこともあったし。
「お医者様、呼んでもらえるのかな」
景子は、さっきの若い女性の態度を思い出して、心配になった。
少なくとも、夫が帰ってくるまでは放置しそうな気がする。
「さあね……でも、もう僕たちが関与するところじゃ……って、おい」
ネイディは、驚いた声をあげた。
景子は、運び込まれる室長の後に、ついていこうとしたのだ。
あの光は、本当によくない光のはず。
景子は、自分を信じようと思った。
自分のこの、見るしか出来ない目を、ちゃんと理解しようと思ったのだ。
寝ていれば治るレベルは、とうに越えている。
頭を冷やすことだけでも、やらなければ。
「すみません、お水と冷やすための布と……」
ベッドに寝かされる室長を見届けた後、立ち去ろうとする使用人たちに頼みごとをする。
「まったく……知らないぞ」
扉のところで、ネイディが唸った。
彼女のことを、いろいろ気にかけてくれるいい人だ。
なんだかんだいいながら、こうして付き合ってくれるのだから。
男手が増えたことに、彼女は喜んだのだ。
「ああ、よかった。ネイディ、室長を着替えさせてあげて」
そして──にっこり笑ってお願いごとをするのだった。
※
ネイディに室長を預けている間に、こっそり景子は厨房へと向かった。
彼の部屋から借りてきた、空の水差しを持って、だ。
景子は、旅をしている間、あちこちの屋敷に一時的に泊めてもらうこともあった。
特に、イエンタラスー夫人の屋敷では、平気で厨房にも出入りしていたのである。
どこの屋敷の厨房も、さしたる差はなかった。
そこで、彼女は使用人に頼み、砂糖と塩を分けてもらい、水差しの中に簡単なスポーツ飲料をこしらえたのだ。
水分と栄養が必要だと思った。
室長は、ほとんど汗をかいていない。
既に、脱水症状に近いはずだ、と。
「おい、僕を一人にするなよ」
戻ると、既に着替えは終わっていたが、ネイディはおかんむりだった。
「ああ、ごめんね……ちょっと室長の身体を起こすの手伝って」
わびつつも、景子は次のお願いごとを軽く上積みする。
何でだろう。
本当に、ネイディには頼みやすいというか、頼みやすい気が出ているというか。
「いい加減にしろ」
と、言いながらも、やっぱり彼は手伝ってくれるのだ。
「室長、少し水を口に入れますからね」
ネイディに支えさせた身体を、彼女も片手で補助しながら、杯を唇にあてる。
ゆっくりゆっくり、休み休み流し込む。
それを何回か繰り返して、再び横たえる。
額を濡らした布で冷やしてしばらくすると、ようやく彼の顔にうっすらと汗が浮かんだ。
景子は、それに少しだけほーっとした。
彼の身体が、いまの自分の状態をどうにかしようと、動き始めたのが分かったからだ。
光を、見た。
爆ぜる光は、そのままではあったが、さっきよりも間隔は長くなってきている。
「もういいだろう?」
ネイディは、早く出て行きたそうだ。
景子の視線の端で、ゆっくりと光が点滅した。
「う、うん……でも、もう少し……」
せめて。
光が爆ぜなくなるまで。
※
目が──開いた。
時は、夕刻になろうとしていただろうか。
まだ、熱は下がりきっていないが、室長はゆっくりと目を開けたのだ。
景子は、それにほっとする。
「もう少し、水分を取った方がいいです……」
ソファでうつらうつらしていたネイディを起こして、彼に何度めかのスポーツ飲料もどきを飲ませる。
熱ではっきりしない視線だが、それでも彼の目は物問いたげだった。
何故ここに、部下がいるのか分かっていないようだ。
彼女は、ようやく彼の光が、爆ぜなくなったのを確認していた。
それに、ほっと胸をなでおろす。
「まだ、水差しには入っていますから、まめに飲んで下さい。お医者様も呼んで下さいね」
後ろ髪は引かれるものの、彼女に出来るのはこれが精いっぱいだ。
もうそう遠くなく、彼の兄も帰ってくるに違いない。
退散すべき時だった。
「それでは、失礼します」
ネイディは、身なりをきちんと整えて、景子は何度も振り返りながら、そしてようやく屋敷を出て行ったのだ。
はぁ。
農林府への道をたどりながら、景子はため息をついた。
「ため息をつきたいのは、僕の方だ」
ネイディは、本当に肩を落としている。
「僕の出世の道が、このまま閉ざされたら、ケーコのせいだからな」
そしてまた、彼女に巻き込まれたことを嘆くのだ。
しかし、景子はネイディを見ながらも、微かな笑顔になっていた。
まだ、完全に室長が大丈夫だと決まったわけではないのだが、彼女は出来る限りのことはしたのである。
あの時とは、違うのだ。
だが、景子は同時に分かっていた。
これは、ただの自己満足なのだと。
あの上司に対して、とりわけ強い好意を抱いているわけでもない。
それは、本当に重々分かっている。
ただ。
赦されたかったのだ。
自分に──赦されたかった。




