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あの時

「おはようございます!」


 景子にとって、次の壁は農林府だった。


 久しぶりの出勤なのだ。


 いくら、ロジューのところに連れ去られていたとは言え、きちんと説明をしなければならないだろう。


 案の定。


 周囲の視線は、冷ややかだった。


 ネィディだけは、あらぬ方を見ているが。


 ただでさえ、農林府に飛び入りした景子である。


 実績らしい実績を上げないまま、長期休暇とはいい度胸どころではない。


 机の上に、ぽつんと置かれた割れた硝子の袋が、所在なげに彼女を待っていてくれた。


 だが。


 景子も、多少の言い訳は用意していたのだ。


 それは。


「これが、イデアメリトスの妹君の屋敷に完成した温室の設計図と、植えた植物の一覧です。時々、様子を見に行きたいと思います」


 集めた資料は、ロジューの屋敷でまとめていたのだ。


 ちゃんと仕事はしてきたんですー!


 景子は、それを一生懸命アピールした。


「分かった」


 青白い顔の上司──室長は、一言だけ答えるとその資料を受け取り──横の書類の山の上に積んだ。


 分かったといいながら、彼は『温室』という新しい言葉に対して、何の反応も示さない。


 景子の話など、聞いていない証拠だった。


 あはは。


 毎度おなじみの光景とは言え、彼女は軽い汗をかきながら、自分の席へと戻ったのだった。


 ただ。


 仕事とは別に、物凄く気になることがあった。


 青白い顔の上司を、包んでいる光だ。


 非常に小さく、時々光がはぜるように点滅している。


 景子は、自分の席からしばらく、彼の光を見ていた。


 昔見た、いやな記憶の光に、似ているように思えたのだ。


 さっき、自分に対してなにも小言を言わなかったのは、言う気力さえなかったのではないだろうか。


 そんな素振りなどおくびにも出さずに、室長は書類をこなし続けている。


 ちらちら彼を見ながら、景子は一人で勝手にはらはらしていたのだった。



 ※



「室長……具合悪そうなんだけど」


 ついに我慢が出来なくなって、景子はネイディに話を振ってみた。


「え?」


 彼は驚いたように、上司の方を見る。


 しばらく、じーっと見ていた後、景子の方を向き直り。


「そうかぁ?」


 ネイディには、いつもと同じ上司に見えるのだろう。


 顔色が悪いのは、今日に始まったことではないのだから。


 さっきよりも、光がはぜては消える回数が増えてきているように思えて、景子はどきどきした。


 光が完全に消えるのは、すなわち命が終わってしまうことではないか、と。


 彼女は、そーっと席を立った。


「お……おい!」


 小さく小さく殺した声で、ネイディは景子を止めようとする。


 けれども、彼女はこそこそと上司のところまで近づいたのだ。


「失礼しまーす……」


 小さい小さい声で、景子は後ろから彼に声をかけた。


 気づいていないようで、室長はまったく反応しない。


 彼女は、そーっと手を伸ばした。


 その部屋の空気が、一瞬だけ完全に止まった。


 ネイディを含む職員皆が、景子の行動に驚いたのだ。


 彼女は、座って仕事をする室長の後ろから手を伸ばし──その額にいきなり触ったのである。


 ジュウッ!


 勿論、そんな音はしなかった。


 しかし、驚くほど高い熱なのは間違いなかった。


「何をしているのかね」


 熱とは真反対の冷たい上司の声が、響き渡る。


「だ、誰か室長を家に送ってあげて!」


 景子は、彼の意見など聞いていなかった。


 このままでは、職場で昇天しかねないと思ったのだ。


 しかし。


 彼女の声に、誰一人動こうとしない。


 室長がいつもの態度を続けている限り、景子の言葉には信憑性がないのだろう。


「あなたは病気です! 高熱です! 死にかけてます! 違うというのなら椅子から立ってみてください!」


 ああもう。


 どうしてこう、男は仕事が絡むと頑固なのか。


 景子の記憶の中に、つらいものがよみがえった。


 OL時代、景子は過労死に直面したことがあったのだ。


 その時も、上司で。


 異変に気付いていながら──彼女は、止められなかった。



 ※



 室長は、怒り狂っていなかった。


 ド平民の景子に、いきなり額を触られ、席を立ってみろとまで言われたにも関わらず、彼は貴族としての反応を一切しなかったのだ。


 いや。


 出来なかったに違いない。


「何を……」


 冷たい声が──ついに止まった。


 その細い身体が、一度震える。


 立てないことに、ようやく気付いたのだろうか。


「ネイディ、農林府の荷馬車を借りてきて!」


 唯一助けてくれそうな男の名を、景子は呼んだ。


 普段、下っ端として使われ慣れているネイディは、強い言葉のせいか反射的に席を立った。


 自分より、景子の身分が下であるということを把握しているにも関わらず、彼は荷馬車を確保してくれたのだ。


 ようやく、他の職員の手も借りて、室長を荷馬車に積みこむ頃には、もはや彼は身動きも取れないほどになっていた。


「家、分かる?」


 景子がネイディに確認すると、その迫力に気おされてか、コクコクと頷く。


 彼は御者の横で道案内することになり、景子は荷馬車に乗り込んだ。


 光の爆ぜる上司の青い顔を見ながら、昔を思い出していた。


 助けられたかもしれないのに。


 彼女は、自分の能力の奇異さを人に知られたくなくて、気づかないふりをしたのだ。


 お葬式の手伝いに部下として行った時、景子は自分のしたことの代償が、一体何だったのかを知った。


 黒いリボンの写真。


 泣き狂う奥さんと子供たち。


 会社は過労死で訴えられ、社内もボロボロになっていった。


 皆が、亡くなった彼の話を避けるようになり、景子もまた、少しずつ弱っていったのだ。


 立ち直るのに、長い長い時間が必要だった。


 あの時は、自信もなかった。


 本当に、彼が具合が悪いのかどうか、確信が持てなかったのだ。


 だが、今度は違う。


 まだ、手遅れじゃないかもしれない。


 だから。


 景子は、席から立ったのだ。


 ロジューが、言ったではないか──磨かない能力など、ただの芸だと。

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