あの時
☆
「おはようございます!」
景子にとって、次の壁は農林府だった。
久しぶりの出勤なのだ。
いくら、ロジューのところに連れ去られていたとは言え、きちんと説明をしなければならないだろう。
案の定。
周囲の視線は、冷ややかだった。
ネィディだけは、あらぬ方を見ているが。
ただでさえ、農林府に飛び入りした景子である。
実績らしい実績を上げないまま、長期休暇とはいい度胸どころではない。
机の上に、ぽつんと置かれた割れた硝子の袋が、所在なげに彼女を待っていてくれた。
だが。
景子も、多少の言い訳は用意していたのだ。
それは。
「これが、イデアメリトスの妹君の屋敷に完成した温室の設計図と、植えた植物の一覧です。時々、様子を見に行きたいと思います」
集めた資料は、ロジューの屋敷でまとめていたのだ。
ちゃんと仕事はしてきたんですー!
景子は、それを一生懸命アピールした。
「分かった」
青白い顔の上司──室長は、一言だけ答えるとその資料を受け取り──横の書類の山の上に積んだ。
分かったといいながら、彼は『温室』という新しい言葉に対して、何の反応も示さない。
景子の話など、聞いていない証拠だった。
あはは。
毎度おなじみの光景とは言え、彼女は軽い汗をかきながら、自分の席へと戻ったのだった。
ただ。
仕事とは別に、物凄く気になることがあった。
青白い顔の上司を、包んでいる光だ。
非常に小さく、時々光がはぜるように点滅している。
景子は、自分の席からしばらく、彼の光を見ていた。
昔見た、いやな記憶の光に、似ているように思えたのだ。
さっき、自分に対してなにも小言を言わなかったのは、言う気力さえなかったのではないだろうか。
そんな素振りなどおくびにも出さずに、室長は書類をこなし続けている。
ちらちら彼を見ながら、景子は一人で勝手にはらはらしていたのだった。
※
「室長……具合悪そうなんだけど」
ついに我慢が出来なくなって、景子はネイディに話を振ってみた。
「え?」
彼は驚いたように、上司の方を見る。
しばらく、じーっと見ていた後、景子の方を向き直り。
「そうかぁ?」
ネイディには、いつもと同じ上司に見えるのだろう。
顔色が悪いのは、今日に始まったことではないのだから。
さっきよりも、光がはぜては消える回数が増えてきているように思えて、景子はどきどきした。
光が完全に消えるのは、すなわち命が終わってしまうことではないか、と。
彼女は、そーっと席を立った。
「お……おい!」
小さく小さく殺した声で、ネイディは景子を止めようとする。
けれども、彼女はこそこそと上司のところまで近づいたのだ。
「失礼しまーす……」
小さい小さい声で、景子は後ろから彼に声をかけた。
気づいていないようで、室長はまったく反応しない。
彼女は、そーっと手を伸ばした。
その部屋の空気が、一瞬だけ完全に止まった。
ネイディを含む職員皆が、景子の行動に驚いたのだ。
彼女は、座って仕事をする室長の後ろから手を伸ばし──その額にいきなり触ったのである。
ジュウッ!
勿論、そんな音はしなかった。
しかし、驚くほど高い熱なのは間違いなかった。
「何をしているのかね」
熱とは真反対の冷たい上司の声が、響き渡る。
「だ、誰か室長を家に送ってあげて!」
景子は、彼の意見など聞いていなかった。
このままでは、職場で昇天しかねないと思ったのだ。
しかし。
彼女の声に、誰一人動こうとしない。
室長がいつもの態度を続けている限り、景子の言葉には信憑性がないのだろう。
「あなたは病気です! 高熱です! 死にかけてます! 違うというのなら椅子から立ってみてください!」
ああもう。
どうしてこう、男は仕事が絡むと頑固なのか。
景子の記憶の中に、つらいものがよみがえった。
OL時代、景子は過労死に直面したことがあったのだ。
その時も、上司で。
異変に気付いていながら──彼女は、止められなかった。
※
室長は、怒り狂っていなかった。
ド平民の景子に、いきなり額を触られ、席を立ってみろとまで言われたにも関わらず、彼は貴族としての反応を一切しなかったのだ。
いや。
出来なかったに違いない。
「何を……」
冷たい声が──ついに止まった。
その細い身体が、一度震える。
立てないことに、ようやく気付いたのだろうか。
「ネイディ、農林府の荷馬車を借りてきて!」
唯一助けてくれそうな男の名を、景子は呼んだ。
普段、下っ端として使われ慣れているネイディは、強い言葉のせいか反射的に席を立った。
自分より、景子の身分が下であるということを把握しているにも関わらず、彼は荷馬車を確保してくれたのだ。
ようやく、他の職員の手も借りて、室長を荷馬車に積みこむ頃には、もはや彼は身動きも取れないほどになっていた。
「家、分かる?」
景子がネイディに確認すると、その迫力に気おされてか、コクコクと頷く。
彼は御者の横で道案内することになり、景子は荷馬車に乗り込んだ。
光の爆ぜる上司の青い顔を見ながら、昔を思い出していた。
助けられたかもしれないのに。
彼女は、自分の能力の奇異さを人に知られたくなくて、気づかないふりをしたのだ。
お葬式の手伝いに部下として行った時、景子は自分のしたことの代償が、一体何だったのかを知った。
黒いリボンの写真。
泣き狂う奥さんと子供たち。
会社は過労死で訴えられ、社内もボロボロになっていった。
皆が、亡くなった彼の話を避けるようになり、景子もまた、少しずつ弱っていったのだ。
立ち直るのに、長い長い時間が必要だった。
あの時は、自信もなかった。
本当に、彼が具合が悪いのかどうか、確信が持てなかったのだ。
だが、今度は違う。
まだ、手遅れじゃないかもしれない。
だから。
景子は、席から立ったのだ。
ロジューが、言ったではないか──磨かない能力など、ただの芸だと。




