ホトトギス
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白い獅子の出てくる夢を見た。
目が覚めたら、本当に白い獅子がいたので、菊は起き抜けについつい苦笑してしまった。
「何を笑っている?」
夕刻の空を見上げながら、トーが彼女に問いかける。
顔はこっちを向いていないというのに、気配で分かったのだろう。
「トーに良く似た動物の出てくる夢を見たんだよ。こっちには、いないだろうけど」
昼夜逆転の生活をしながら旅をしているため、すっかり菊も夜型になってしまった。
人間、どれほど明るくても眠れるものなのだな、と感心するほど。
最近、菊は明け方が一番楽しみに思えている。
歩くのをやめ、眠れる場所を確保して眠りにつく前に、トーが空に向かって歌うからだ。
西に月が沈み、白み始める東の空に、その歌声は吸い上げられるように天空に舞い上がる。
ある朝。
その歌の途中、菊をぎくりとさせることが起きた。
振り返ると、子供が一人立っていたのだ。
ぽかんと、トーの歌声を聞いている。
ぎくりとさせたのは──気配がなかったから。
菊に気づかせずに、真後ろに立っていたのだ。
トーは、歌いながらその子に手を伸ばす。
何ら疑問に思う様子もなく、子供はその手を握るために彼に近づくのだ。
そして。
手が触れ合うや、子供はふわりと宙に舞い上がった。
最初から、何の質量もなかったかのように。
ああ、生者ではなかったのか。
空に消え行く子供を見上げながら、菊はようやく理解した。
「滅びの歌だ……」
歌を終えたトーが、明ける空を見上げる。
「自虐的過ぎるな……滅びているようには見えなかったぞ」
この白い獅子は、かなり後ろ向きだ。
世に戻りながらも、まだまだ暗い影の方を向いていたがっている。
太陽を睨めば、どれほど艶やかになるか。
想像するだに、菊は楽しくなるというのに。
「ああいうのは……安らぎの歌、とでも呼ぶもんだ」
そういえば。
お化けを見たのは、初めてだな。
菊は、呑気にそんなことを思っていた。
※
「具合が悪いだろう?」
夜の旅路で、突然トーに言われた。
「は?」
本当に突然で、自覚のないことだったので、菊は怪訝な返事をしてしまった。
その返事をした瞬間。
足元がふわっとした。
反射的に、しっかりと地面を踏みしめたが、そこで菊は気づいたのだ。
たったいま。
熱が上がった、と。
自分の管理は、しっかりとしてきた菊だ。
自覚症状が出れば、すぐに気づくことが出来る。
しかし、トーは彼女が自覚する一瞬前に言い当ててしまった。
宗教家、声楽家。
菊は、彼に似合う仕事を考えていたが、それに新たにひとつ追加しなければならない気がした。
医者。
「いま来た……その通りだよ」
菊は、即座に白旗を揚げた。
無理をすべきところではするが、ここはその場面ではない。
昨日は天気が悪く、南に向かっているというのに、雨が降って冷えたのだ。
おそらく、そのせいだろう。
早めに治しておくに限る。
とは言うものの、いまは真夜中。
しかも、山道だ。
火をたいて、木陰で休むくらいしか方法はないだろう。
だが。
昨日の天気は、ここでも影響を与えていて。
木々が、見事にすべてしけっていたのである。
これでは、マントにくるまって震えているしかなさそうだ。
菊が、あきらめてドスンと座り込んだ時。
トーが──歌い始めた。
小さい音だが、暖かい歌だった。
って、え?
菊は、驚いた。
本当に、周囲の温度が上がり始めたのだ。
※
「すごいな……」
歌を止めたトーに、菊は本当に感心したのだ。
マント一枚でも、十分しのげる暖かさに包まれていた。
「歌ならたいしたことはない……ほんの少し、何かを動かすだけだ」
謙遜でもなんでもなく、トーは本気でそう思っているようだ。
ほんの少し。
ほんの少し後押しして、彼は桜を咲かせ、死者をどこかへ送り、気温を上げる。
だが。
歌なら──その表現に、引っかかる。
まだ、トーは隠しているものがあるのだ。
歌以外ならば、もっと大きく何かを動かせるのだと。
「魔法……とかいうものか?」
菊は、熱でぼんやりしながらも、その単語を思い出していた。
アルテンとの旅路で、覚えた言葉だった。
捧櫛の神殿にたどりついた時、イデアメリトスの話になったのだ。
「歌っていればよかったのだ。皆、ただ、歌って暮らせば……」
トーの声には、悔いる感情が染み渡っている。
魔法など、使わなければ──菊には、そう聞こえた。
よく分からないが、魔法はトーにとって危険なものなのだろう。
歌は問題ない、ということか。
「トー……やはり、トーは宗教家になれるな。歌だけで十分に、だ」
暖かさと熱で、うつらうつらしながら、菊は笑っていた。
彼の後悔など、正直どうでもいい。
トーの血族が何をしようが、それは彼らが自分で選んだ結果だ。
そんなものまで、トーが背負う必要などなかった。
それより。
この歌でも、菊にとっては十分魔法に思えた。
魔法は、イデアメリトスだけしか使えないと、一般の人々は信じている。
それ以外の者がちょっとでも使えば、簡単に奇跡の人の出来上がりではないか。
「おかしなことを言うな……お前は」
トーは、困った笑顔を浮かべている。
そんな顔を瞳に残して、菊は目を閉じた。
後は。
この、どこに出しても恥ずかしくない人見知りを、どうにかしなければ。
菊は、そのままぐっすりと眠ってしまった。
朝まで。
※
朝だ。
時々トーが歌ってくれたのか、菊はまったく寒い思いもせずにぐっすり眠ることが出来た。
おかげで、熱もさっぱり引いている。
今日は、問題なく旅が続けられそうだ。
だが──朝なのだ。
「今日は……明るい内に行かないか?」
旅路で手に入れた獣の肉で、トーは器用に干し肉を作った。
その肉を、朝食代わりにかじりながら、菊はこの白い獅子に語りかける。
「……」
彼は、しばらく黙り込んだ。
「私を……さらし者にする気か?」
これまでの菊の発言を集めて、トーはそんな結論を出したようだ。
「あっはっは、さらし者か。そうだな、私はトーをさらしたいぞ」
王という形以外でも、世界を獲ることは出来る。
空が、太陽だけのものではないように。
「自分の価値と、自分の使い道を、自分で知ってほしいな……価値の方は、特に、ね」
ひととおり笑い終えた後、菊は微妙な表情をしたままのトーにそう願うのだ。
だが。
価値というものは、自分だけでは知ることが出来ない。
人の目で見られて初めて、客観的に理解できるものなのだ。
だからこそ、彼は人目に晒されなければならないと菊は思うのである。
トーは、黙っている。
何か考えてはいるのだろうが、迷っているようには見えないところが、彼らしい。
「昨日、私のために歌ってくれたように、他人のために歌うことも、あってもいいんじゃないか?」
鳴かぬなら。
鳴かせてみたいのだ。
この、ホトトギスを。
「問題が……起こるぞ」
トーは、苦しそうな瞳になった。
菊は、笑った。
「起こっていいじゃないか」




