旦那
☆
帰りの荷馬車の中。
「さて……旦那が必要だな」
アディマと別れた余韻で、景子が少ししょんぼりしていると──ロジューが突然、変なことを言い始めた。
「は?」
彼女の視線は、こっちを見ている。
「いや、お前に旦那がいるなと思ってな」
ロジューは、いたって真面目に考えている顔だ。
「お前の言うように、妊娠しているというのなら、夫がいないというのも怪しまれるだろう」
名目上の夫が必要だ──そう、彼女は言うのだ。
い、いらないかも。
ケイコとしては、そこは抵抗したいところだった。
「あの……無理には……別に……」
もにょもにょと、口の中で歯切れの悪い音を呟くと、彼女の睨みが上から飛んでくる。
「お前が、ずっとうちの屋敷に閉じこもっているならば、それもよかろう。もう農林府に行くのも、諦めるというのならばな」
言葉は、鋭かった。
鋭く、景子の痛いところを刺すのだ。
「役所はな……お前が思っているよりうるさいところだ。お貴族様が、上から仕切っているんだぞ。そこに、ド平民のおまえが、ふしだらにも誰が相手か分からない子を孕んで出勤したら……どうなると思う?」
極限まで細められたロジューの金褐色の目が、彼女を水平に斬ろうとする。
あうあう。
景子の脳裏には、あの顔色の悪い上司が浮かぶ。
確かに、彼に理解してもらえるとは思えなかった。
かろうじて同僚のネイディが、いやな顔をしつつ放置してくれる、くらいか。
「腹が大きくなろうが、好きなことをしていい。愚甥のことは気にするな。農婦たちを見てみろ。臨月のギリギリまで働くんだぞ」
ロジューは、景子を甘やかそうとしていたアディマを睨むかのように、あらぬ空間に向かって顔を顰める。
確かに、ずっとおとなしくしているのは、彼女にも合いそうになかった。
「まあ、心当たりはある。まかせておけ」
ふふん。
彼女は、何か悪いことを思いついた顔で鼻を鳴らす。
何か。
いやな予感がした。
※
いやな予感──それは、ちょっと外れたのかもしれない。
ロジューの屋敷に戻り、数日が過ぎた頃。
再開した温室の工事に立ち会おうと、景子は庭に出ようとしていた。
そこで。
ぴかぴかの光を見たのだ。
あれ?
彼女は、自分のおなかを見た。
服に隠れているので、わずかに光っている、くらいしか分からない。
景子は、顔を上げた。
視線の先は、もともとぴっかぴか光っているため、服を着ていてもそのおなかが、余計に光を放っているのが分かる。
誰の話か?
ここの女主人──ロジューのことである。
えええええーーー?
景子は、顎をかくーっと外しながら、その光に目が釘付けになっていた。
こ、これは、どういうこと!?
ロジューのおなかが、ぴかぴかしている。
そのぴかぴかが、景子と同じ理由であるとするのならば。
「何だ……その顔は?」
彼女の方に近づきながら、ロジューは怪訝な顔を隠さなかった。
「え……あの……その……」
顔を見て、おなかを見て、また顔を見て、もう一度おなかを見る──景子は、とても忙しかったし、正直者だったのだ。
「ん?」
ロジューもまた、景子の視線に引っ張られるように、自分のおなかを見るのだ。
一瞬。
彼女の動きが、完全に止まった。
そして、ゆっくりゆっくりと景子へと視線を戻す。
「……?」
ロジューは自分のおなかに手をあてて、首を傾げた。
何かを、そこから感じようとしているかのようだ。
景子は、そんな彼女に、おそるおそる頷いて見せた。
その頷きを見て──ロジューは、ニヤッと笑うではないか。
「そうか……じゃあ、後でいいところに連れていってやろう」
何がどうなって「じゃあ」なのか。
景子には、さっぱりわからなかった。
※
その小屋は、ジャングルの向こうにあった。
景子がまだ、踏み込んだことのなかったところだ。
「スレイピッドスダート!」
その小屋の戸を、ロジューは押し開ける。
中にいたのは、目深にかぶったフードとローブで、全身を隠した男だった。
この中暑季地帯で、こんな恰好をしている人間などいないので、その姿は異様にさえ感じる。
「ロジューストラエヌル……」
ため息混じりのその声は、「今度は何だ」とでも言いたげだった。
いつも、厄介事を持ちこまれているのだろうか。
そのフードの中の瞳が、オマケの景子を映す。
「これがケーコだ……お前の妻役になる女だ」
顔くらい、知ってないといけないだろう。
腰の引けている彼女を、ロジューは前に押し出した。
ああ。
前に言っていた、夫役という人への紹介だったのか。
「あの……お手数かけます……」
おそるおそる、景子は頭を下げた。
こういう相手を前に、どんな顔をしたらいいのか、さっぱり分からない。
見ず知らずの人が、自分の夫ということになっているのだから。
「知っている……」
「お前が知っていても、ケーコはお前を知らない。さあ、フードを取って顔を見せてやれ」
男の不機嫌な声にも構わず、ロジューは畳みかけた。
やれやれ。
彼は、うるさそうにしながら、その両手をフードにかける。
その時点で、既に分かることがあった。
両手は、アディマやロジューよりももっと、黒に近い褐色をしている。
そして。
手から手首という、見える狭い範囲でも既に、多くの傷を持っていた。
フードが取り払われると。
そこには。
沢山の傷の刻まれた顔と、二度と何も映さないだろう大傷の走る左の目。
恐ろしい修羅場を、その身で知っている男だった。
※
「ちょっと顔は怖いが、うち一番の腕利きだ。ケーコが都に行く時は、護衛として連れていけ」
周囲には、旦那と同伴に見える──ロジューは、軽やかに笑った。
景子が、身重でも働くことを見越して、彼女なりにきちんと人選をしてくれたのだろう。
「ありがとうございます……スレイ……ええと」
スレイピッドスダートと言おうとしたのに、記憶と唇がうまく合致しなかった。
「呼び方は、何でもいい」
ため息をつくのが、彼のクセなのだろうか。
それとも、ロジューと一緒にいると、そうならざるを得ないのだろうか。
だが、彼は不思議な男だった。
イデアメリトスの女性に対して、まったく敬う仕草も見せず、「様」さえもつけないのだから。
「普通は、夜しか出歩かない男だが……呼びつければ、一応昼間でも動く」
好きに使っていいぞ。
「ロジューストラエヌル……」
いい加減にしろ。
言外にその音を響かせながら、彼女の名を呼ぶ。
「昨夜、そう、約束しだろう?」
金褐色の瞳は、一切ひるむことがない。
言葉は、念を押すように一音ずつ強く刻まれるのだ。
昨夜。
その言葉に、はっと景子はスレイを見た。
まさか、と。
その視線に気づいたロジューが、ニヤリと口の端を上げる。
ええええーーー!
驚きのあまり、彼女は不躾なほど一生懸命、スレイという男の顔を見てしまった。
素早そうな体つきの男だった。
ダイのような巨体ではなく、骨に筋肉だけつくと、こんな風になるんだろうかというような、独特の反りと流線。
景子より年上には間違いないというのに、黒豹のようなしなやかさをその身に維持し続けている。
「立場上は、私の従者……だ。言う事を聞かすには、いろいろ面倒なのだがな」
まるで。
野生動物を飼育しているかのように、ロジューは彼を見る。
「あ、あの……おめでとうございます」
右目に見返された景子は、慌てふためいて、ついそんなことを言ってしまった。
「……めでたい?」
怪訝に繰り返す彼に、ロジューはニヤニヤしているだけだった。




