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旦那

 帰りの荷馬車の中。


「さて……旦那が必要だな」


 アディマと別れた余韻で、景子が少ししょんぼりしていると──ロジューが突然、変なことを言い始めた。


「は?」


 彼女の視線は、こっちを見ている。


「いや、お前に旦那がいるなと思ってな」


 ロジューは、いたって真面目に考えている顔だ。


「お前の言うように、妊娠しているというのなら、夫がいないというのも怪しまれるだろう」


 名目上の夫が必要だ──そう、彼女は言うのだ。


 い、いらないかも。


 ケイコとしては、そこは抵抗したいところだった。


「あの……無理には……別に……」


 もにょもにょと、口の中で歯切れの悪い音を呟くと、彼女の睨みが上から飛んでくる。


「お前が、ずっとうちの屋敷に閉じこもっているならば、それもよかろう。もう農林府に行くのも、諦めるというのならばな」


 言葉は、鋭かった。


 鋭く、景子の痛いところを刺すのだ。


「役所はな……お前が思っているよりうるさいところだ。お貴族様が、上から仕切っているんだぞ。そこに、ド平民のおまえが、ふしだらにも誰が相手か分からない子を孕んで出勤したら……どうなると思う?」


 極限まで細められたロジューの金褐色の目が、彼女を水平に斬ろうとする。


 あうあう。


 景子の脳裏には、あの顔色の悪い上司が浮かぶ。


 確かに、彼に理解してもらえるとは思えなかった。


 かろうじて同僚のネイディが、いやな顔をしつつ放置してくれる、くらいか。


「腹が大きくなろうが、好きなことをしていい。愚甥のことは気にするな。農婦たちを見てみろ。臨月のギリギリまで働くんだぞ」


 ロジューは、景子を甘やかそうとしていたアディマを睨むかのように、あらぬ空間に向かって顔を顰める。


 確かに、ずっとおとなしくしているのは、彼女にも合いそうになかった。


「まあ、心当たりはある。まかせておけ」


 ふふん。


 彼女は、何か悪いことを思いついた顔で鼻を鳴らす。


 何か。


 いやな予感がした。



 ※



 いやな予感──それは、ちょっと外れたのかもしれない。


 ロジューの屋敷に戻り、数日が過ぎた頃。


 再開した温室の工事に立ち会おうと、景子は庭に出ようとしていた。


 そこで。


 ぴかぴかの光を見たのだ。


 あれ?


 彼女は、自分のおなかを見た。


 服に隠れているので、わずかに光っている、くらいしか分からない。


 景子は、顔を上げた。


 視線の先は、もともとぴっかぴか光っているため、服を着ていてもそのおなかが、余計に光を放っているのが分かる。


 誰の話か?


 ここの女主人──ロジューのことである。


 えええええーーー?


 景子は、顎をかくーっと外しながら、その光に目が釘付けになっていた。


 こ、これは、どういうこと!?


 ロジューのおなかが、ぴかぴかしている。


 そのぴかぴかが、景子と同じ理由であるとするのならば。


「何だ……その顔は?」


 彼女の方に近づきながら、ロジューは怪訝な顔を隠さなかった。


「え……あの……その……」


 顔を見て、おなかを見て、また顔を見て、もう一度おなかを見る──景子は、とても忙しかったし、正直者だったのだ。


「ん?」


 ロジューもまた、景子の視線に引っ張られるように、自分のおなかを見るのだ。


 一瞬。


 彼女の動きが、完全に止まった。


 そして、ゆっくりゆっくりと景子へと視線を戻す。


「……?」


 ロジューは自分のおなかに手をあてて、首を傾げた。


 何かを、そこから感じようとしているかのようだ。


 景子は、そんな彼女に、おそるおそる頷いて見せた。


 その頷きを見て──ロジューは、ニヤッと笑うではないか。


「そうか……じゃあ、後でいいところに連れていってやろう」


 何がどうなって「じゃあ」なのか。


 景子には、さっぱりわからなかった。



 ※



 その小屋は、ジャングルの向こうにあった。


 景子がまだ、踏み込んだことのなかったところだ。


「スレイピッドスダート!」


 その小屋の戸を、ロジューは押し開ける。


 中にいたのは、目深にかぶったフードとローブで、全身を隠した男だった。


 この中暑季地帯で、こんな恰好をしている人間などいないので、その姿は異様にさえ感じる。


「ロジューストラエヌル……」


 ため息混じりのその声は、「今度は何だ」とでも言いたげだった。


 いつも、厄介事を持ちこまれているのだろうか。


 そのフードの中の瞳が、オマケの景子を映す。


「これがケーコだ……お前の妻役になる女だ」


 顔くらい、知ってないといけないだろう。


 腰の引けている彼女を、ロジューは前に押し出した。


 ああ。


 前に言っていた、夫役という人への紹介だったのか。


「あの……お手数かけます……」


 おそるおそる、景子は頭を下げた。


 こういう相手を前に、どんな顔をしたらいいのか、さっぱり分からない。


 見ず知らずの人が、自分の夫ということになっているのだから。


「知っている……」


「お前が知っていても、ケーコはお前を知らない。さあ、フードを取って顔を見せてやれ」


 男の不機嫌な声にも構わず、ロジューは畳みかけた。


 やれやれ。


 彼は、うるさそうにしながら、その両手をフードにかける。


 その時点で、既に分かることがあった。


 両手は、アディマやロジューよりももっと、黒に近い褐色をしている。


 そして。


 手から手首という、見える狭い範囲でも既に、多くの傷を持っていた。


 フードが取り払われると。


 そこには。


 沢山の傷の刻まれた顔と、二度と何も映さないだろう大傷の走る左の目。


 恐ろしい修羅場を、その身で知っている男だった。



 ※



「ちょっと顔は怖いが、うち一番の腕利きだ。ケーコが都に行く時は、護衛として連れていけ」


 周囲には、旦那と同伴に見える──ロジューは、軽やかに笑った。


 景子が、身重でも働くことを見越して、彼女なりにきちんと人選をしてくれたのだろう。


「ありがとうございます……スレイ……ええと」


 スレイピッドスダートと言おうとしたのに、記憶と唇がうまく合致しなかった。


「呼び方は、何でもいい」


 ため息をつくのが、彼のクセなのだろうか。


 それとも、ロジューと一緒にいると、そうならざるを得ないのだろうか。


 だが、彼は不思議な男だった。


 イデアメリトスの女性に対して、まったく敬う仕草も見せず、「様」さえもつけないのだから。


「普通は、夜しか出歩かない男だが……呼びつければ、一応昼間でも動く」


 好きに使っていいぞ。


「ロジューストラエヌル……」


 いい加減にしろ。


 言外にその音を響かせながら、彼女の名を呼ぶ。


「昨夜、そう、約束しだろう?」


 金褐色の瞳は、一切ひるむことがない。


 言葉は、念を押すように一音ずつ強く刻まれるのだ。


 昨夜。


 その言葉に、はっと景子はスレイを見た。


 まさか、と。


 その視線に気づいたロジューが、ニヤリと口の端を上げる。


 ええええーーー!


 驚きのあまり、彼女は不躾なほど一生懸命、スレイという男の顔を見てしまった。


 素早そうな体つきの男だった。


 ダイのような巨体ではなく、骨に筋肉だけつくと、こんな風になるんだろうかというような、独特の反りと流線。


 景子より年上には間違いないというのに、黒豹のようなしなやかさをその身に維持し続けている。


「立場上は、私の従者……だ。言う事を聞かすには、いろいろ面倒なのだがな」


 まるで。


 野生動物を飼育しているかのように、ロジューは彼を見る。


「あ、あの……おめでとうございます」


 右目に見返された景子は、慌てふためいて、ついそんなことを言ってしまった。


「……めでたい?」


 怪訝に繰り返す彼に、ロジューはニヤニヤしているだけだった。

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