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側仕えと行商人

「どうか……しました?」


 声をかけられて、はっと梅は我に返った。


 いま。


 菊の笛の音が、聞こえた気がしたのだ。


 間違いなく錯覚なのは分かっているのだが、突然、はっきりと聞こえてきて。


 だが、それは薄れるように消えた。


「いいえ……何でもないわ」


 側に控えているエンチェルクを、安心させるために彼女は答える。


 そう。


 エンチェルクが、イエンタラスー夫人の屋敷へと連れてこられたのだ。


 アルテンの、いや、正確にはテイタッドレック卿からの好意、という形だった。


 菊と旅をした後、彼は北の自領へと帰って行ったのだが、いろんな意味でそこでは大騒ぎになったという。


 生きて帰ってきた事実だけで、奥方は泣いて喜び、卿は胸をなでおろした。


 しかも。


 声も腰も、しっかりと落ち着いていたのだ。


 旅に出ると、ここまで息子が変わるものかと、卿はもっと早く旅に出しておけばよかったと後悔したらしい。


 しかし、それにアルテンは異を唱えたのだ。


 ただ、旅をしていたわけではない、と。


 力の使い方を、教えてくれる人がいた。


 それが──菊、ということになるのだが。


 菊への御礼とやらが、何故か梅に来た。


 たくさんの本と一緒に、エンチェルクが荷馬車に乗ってきたのである。


 勿論、運んできたアルテンに、最初は断ったのだ。


 なのに。


『君は、都へ行くと聞いた』


 そう言われた。


 おそらく、菊が何かを吹き込んでいたのだろう。


 別れる時、きっとアルテンは菊に何か御礼をせずにはいられなかっただろうから。


 その御礼のいけにえに、愛すべき相方は、梅をぶら下げたに違いない。


 やってくれたわね。


『君の側で、手足になる者が必要になるだろう』


 おかげで。


 梅は──美しい肌をした、しなやかな手足を手に入れてしまったのだった。



 ※



「ウメ、ウメ!」


 いつものイエンタラスー夫人の声に、梅はエンチェルクを伴って向かったのだ。


「あら……」


 行商の男が、そこにはいた。


 夫人御用達の、あの布を縛りつけた男。


 いつものように、夫人には珍しい物を、梅には本を取り出してくれる彼だったが、その視線が物言いたげに彼女を見つめてくる。


 何か、あったのだろうか。


「ああ……そうだ。テイタッドレック卿のお屋敷に、この後寄られるのでしょう? 返して欲しい本があるのだけれど、配達みたいなことは頼めないかしら」


 その視線も気になったので、梅はそう切り出してみた。


 言葉にしたことは、嘘ではない。


 ただ、別に急ぐことでもないのだ。


「ええ……承ります」


 男の視線が、ゆっくりと頷くように動く。


 そして、夫人を珍品の前に残し、彼とエンチェルクを伴って、梅は自分の部屋へと戻ったのだ。


 男が、ちらりとエンチェルクを横目で見る。


 彼女の前で、言っていいかどうか気にしているのだろう。


「構いません……どうぞ」


「???」


 梅と男の間の空気に、一人ついていけてないエンチェルクは、落ち着かなくきょろきょろと二人を見る。


「昨夜……」


 行商人の男は、語り始めた。


「昨夜……ここより少し南の小街道で、ご姉妹をお見かけしました」


 見知らぬ男と、一緒にいたという。


 そして、彼はためらいながら、こう続けたのだ。


「あなたのご姉妹は……枯れ木に花を咲かせていました」


 あ。


 反射的に、梅は自分の唇を塞ぐ。


 爆笑しそうになったのだ。


 そのため、身体が折れ、肩を大きく震わせる結果になってしまった。


「だ、大丈夫ですか?」


 具合が悪くなったと勘違いしたエンチェルクに、「大丈夫よ」と言うまで──ゆうに三分はかかってしまった。



 ※



 花さかジジィを、しに来たのね。


 梅は、ようやく自分の肺を痛めない程度の微笑みで、止められるようになった。


 ゆっくりと呼吸を取り戻しながら、行商人を見る。


「あれは……魔法……ですよね?」


 だが。


 笑いごとと思っていないのは、行商人の方だった。


 その慎重な唇から出てくる言葉に、エンチェルクも驚いている。


 ああ、そうだったわね。


 この国は、魔法はイデアメリトスの独占なのだ。


 北に少数残ってはいるらしいが、彼らは中寒季地帯まで来ることは許されていない。


 寒季地帯以北にしか、住めないのである。


 永遠の冬から抜け出してきた者が、いたのだろうか。


 それとも──


「菊は魔法は使えませんよ……魔法がもしあったとしたら、その花の方かもしれませんね」


 話を聞けば聞くほど、梅の脳裏には桜の花が広がってゆく。


 もし、彼女の想像が正しいとするならば、可能性はひとつだけある。


 この世界に来た時に抱えていた桜の苗。


 いろいろなことがありすぎて、すっかり忘れていたが、あれを景子が草原に残してきたとしたら。


 一緒に、世界を越えてきた桜だ。


 どんな不思議を起こしても、おかしくはなかった。


「魔法……領域ですか……」


 男は、小さく呟いた。


 梅にとっても、一度だけ本で読んだことがあるその言葉。


「花を咲かせた後……菊はどこへ向かったのですか?」


 もし、梅に会いに来る気があるのならば、もう到着していてもおかしくはない。


「南へ……」


「連れと一緒に?」


「はい」


 そう。


 梅は、目を伏せた。


 都に向かっていた足を戻し、わざわざ桜を咲かせ、また南へ。


 まるで、桜を見に来たかのようだ。


 いや。


 連れに、それを見せにきたかのような。


 会ってみたかったわね。


 梅は、少し残念に思った。



 ※



「名前を……教えていただけない?」


 梅は、テイタッドレック卿宛の荷物を彼に預けながら、そう問うていた。


 行商人の男──それだけで通すには、縁があるように思えたのだ。


 今後も、頼みごとなどあるかもしれない。


 だが。


「ああ……ごめんなさい。私の名前は……」


 その前に、自分の名を改めて自分から告げようとした。


 そうしなければ、不躾だと思ったのだ。


「ウメ……でしょう。知っています」


 しかし。


 先に、言われてしまった。


 家畜以下の、短すぎる名前。


 彼女が、前にアルテンに言われた言葉を思い出し、微かに苦笑しかけた時。


「……リクで結構です」


 男は。


 自らも、短い名前を名乗った。


「いいえ、正式な名前を教えていただきたいの」


 梅は、エンチェルクの時とは、違う意味でそう言った。


 この世界の人の名前は、とても長い。


 しかし、長いからこそ、個人を特定しやすいのだ。


 同姓同名が少なく、名前の部分だけでも誰であるか間違いづらい。


 彼は行商人だ。


 この国の、あちこちを渡り歩いている人間である。


 ウメの知っている人間に、直接または間接的に会うこともあるだろう。


 彼に、何かを伝言しておくこともできる。


「今後……あなたに何か、依頼をすることもあると思いますから」


 だから、きちんとした名前を教えて欲しかった。


「……リクパッシェルイル。これでよろしいですか?」


 名前だけ、しか答えない。


 フルネームで名乗りたくない理由でも、もしかしたらあるのかもしれない。


 それでも十分だった。


「ありがとう……リクパッシェルイル。もし、都に行くことがあって、景子という女性に会ったら……私は元気にしていますと伝えてください」


 そんな梅の言葉に。


「……リクでいいですよ」


「わ、私だってエンでいいんです! 本当です!」


 苦笑のリクの向こうから、エンチェルクまで参戦してしまった。

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