三つ指
☆
「ケーコ……」
そっと、何かの触れる感じ。
呼びかけられる声。
深い眠りの中から、景子はゆらゆらと戻ってくる。
それくらい、ゆるやかな呼び声だったのだ。
「ケーコ……───」
そして、名前の後に続けられる、謎の言葉の群れ。
景子を目覚めさせようとする、先導の小魚の群れだ。
「んー……」
小魚の群れが、水面の光に届いた時、彼女の目も光を取り戻した。
覗き込んでくる、ブランデーがかった金色の目。
あー。
まだ少しだけ寝ぼけた頭で、景子は笑った。
アディマだ。
こんな世界で、いまのところアディマだけが景子の名前を呼んでくれる。
梅と菊にさえ、まだ彼女は名乗っていないのだから。
ダイにも名乗りはしたが、彼はあまりしゃべる方ではないようで。
「えへへ……おはよう」
朝でないのは分かっているのだが、ついつい起き抜けの癖で、そう語りかける。
「ケーコ……───」
相変わらず、意味は分からない。
でも、なんとなく心配してくれている気がした。
こんなところで、泥のように眠っていたからだろう。
そして。
言葉よりも雄弁に、アディマは行動した。
手を差し伸べてくれたのだ。
あの時も、そうだった。
そしてまた、景子が立つのを助けようとしてくれるのである。
そんな優しさが、とても嬉しかった。
周囲の人間や、女主人の態度からすると、きっと高貴な家の生まれだろうに、本人はさしてそんなことを気にとめている様子はない。
好奇心かもしれないが、景子にかまってくれるのだ。
「ありがとう」
手を握ると、アディマの手がとても温かいのが分かる。
逆に言えば。
自分の手が、とても冷たいことを自覚する。
次の瞬間。
「……っくっしゅん!」
景子は、盛大なくしゃみをかましてしまっのだた。
ちゃんと、顔はそむけていたが──アディマにじっと見つめられて、恥ずかしくなった。
※
☆
景子は、姉妹の眠る部屋へアディマと一緒に戻ってきた。
しかし。
扉を開けると、そこには不思議な光景が待っていたのだ。
綺麗に着物を着つけた梅と、半裸の身体に毛布をマントのようにまきつけた菊が。
三つ指ついて、景子をお出迎えしたのだから。
「うわっ、梅さん菊さん、何してるんですか!」
梅は、まだ身体の具合が思わしくないようだし、菊はあんな格好だ。
顔なんか、昨日の血でまだ少し汚れている。
アディマも、二人の不思議な姿を、目を見開いて見つめていた。
「一言、御礼を」
菊が、重々しく口を開く。
「見ず知らずの私ども姉妹の面倒を見ていただき、本当にありがとうございました」
梅が、少し顔色のよくなった肌で、穏やかに微笑む。
「おかげでまた、今日も生きながらえることが出来ました」
二人。
深々と頭を下げる。
「ちょ、ちょっと待って! そ、そんなのいいから、そんなとこに座ってないで!」
あわあわと、景子は二人を立ち上がらせようとした。
正座をして、手までついて頭を下げる。
日本人としては、最高の御礼の形だろう。
しかし、大げさすぎる。
景子はただ、年下の女の子たちの面倒を見ることに、走り回っていただけなのだ。
いわば、勝手に姉のように、お節介を焼いていただけ。
こんなにも、感謝されるいわれはなかった。
親のしつけが、よほどしっかりしている家なのだろう。
二人とも、無茶苦茶マイペースではあるが。
「あなたたちがいて、私の方がもっと助かってるんだから、そんなことはやめてーー」
そう。
こんな世界に、景子一人放り込まれたのなら、ずっとずっとパニックに陥っていただろう。
昨夜だってうまく切り抜けることが出来ずに、今頃のたれ死んでいたかもしれないのだ。
言葉の通じる相手が、自分以外にあと二人いる。
こんなに、心強いことはなかった。
「だから、早く立ってー」
二人の腕を持って、何とか引っ張り上げようとしている景子は。
よほど、それが滑稽に映ったのか。
アディマに、声を出して笑われてしまった。




