夜ときどき春
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「この国の歴史では、既に滅ぼされたことになっている一族がいる」
ある夜。
少しだけ、人の血を取り戻した鬼が、そんなことを語り始めた。
「彼らは、別に月を信奉していたわけではない」
見上げる空には、半分ほどに満ちた月。
「太陽を信奉する者にとっては、敵は月だと言った方が、手っ取り早かったのだろう」
よくある話だ。
歴史など、勝者が勝手に作るもの。
自分たちに都合のいいことだけを、書き残すものなのだから。
「だが、負けて追われた彼らは、皮肉なことに……太陽を信奉する者たちを倒したいがために、月を担ぎあげた」
昼は夜に食われ、夜は朝に食われる。
こちらの世界の表現に、菊は苦笑を覚えた。
殺伐としているな、と。
その殺伐とした基礎知識が、このトーにも焼き付いているのだ。
三つ子の魂とは、げに恐ろしきかな。
「月の国と称し、月の民と称し、恨みと憎しみで固まった町を作り……体制を倒すことも出来ず、いたずらに年を重ね、血は薄く消えかけ……それでも、怒りにしがみつかずにはいられない……」
声に、温度が混じった。
トーが。
捨てた世に、片足を戻しかけているのが分かる。
菊が、引っ張り出したせいだろうか。
いや、違う。
たとえ、彼が世を捨てようとしても、世が彼を捨てようとしていなかったのだ。
この男は、世に愛されている。
どれほど、彼がその気を捨て去ろうとしても、魂にこびりつく光を隠せない。
だからこそ、弟はトーを担ぎあげようとするのだ。
「自分たちだけでやろうとしても、無茶な話だな……もっと長い時間をかけて、人心を動かす方法を考えればいいのにな……」
殺伐と仕掛けるだけが、戦法ではない。
「何を……考えている?」
不穏な、菊の思考に気づいたのだろうか。
微かに咎める音が、そこにはあった。
ああ。
トーが世に戻ってゆく。
世を捨てようとして、どれほどの時間を彼は費やしたのだろうか。
戻ることなど、あっという間なのか。
「いっそ……トーが、宗教家にでもなればいいんじゃないかと思ってな」
王だけが──世を統べるわけではないのだから。
※
トーは、剣をはいてはいなかった。
その代わりに、己の身体で戦う男だった。
彼は、手を拳にすることはなく──まっすぐに伸ばした手刀で突くのだ。
その動きは、ゆるやかな残像を残しながらも、とても速く、そして力強かった。
たとえ、手が血で汚れたとしても、そうあってしかるべきだと考えているかのように思える。
刀で斬る菊よりも、もっと体温に近い命の奪い合い。
トーの手は、人の命を切り取っている実感を、誰よりも抱いているのだ。
そんな男を。
長い時間をかけて、ようやくにして『そこ』へと連れて行く。
彼は、ゆっくりとその広い空間を見回した。
ただ──風が吹き抜ける夜の草原だ。
しかし。
視線が、一点で止まる。
夜だというのに、あれが見えるのか。
菊は、自分の予感の正しさに手ごたえを感じていた。
「行こう……」
そんなトーを、菊は促す。
その一点に向かって、草をかきわけて進むのだ。
そこにあるのは、一本の若木。
領域を示すように、周囲は円状に草が枯れている。
梅のいる領地にほど近いここは、彼女らが最初に降り立った場所。
そこに、この若木は根づいたのだ。
景子は、何も言ってはいなかった。
だが、彼女がここに、あえて桜の木を置いていったのは間違いない。
都へ向けて旅立った菊を、この木は待っていた。
幼いながらに、しっかりと根を下ろし、その首を空に向かってすっくと伸ばしていたのだ。
近づかずには、いられなかった。
菊の魂は、それに吸い寄せられたのだ。
木の葉は、枯れ始めていた。
そうか、いまはそういう季節か。
「その中は……危険だ」
踏み込む彼女に、トーは警告する。
彼は、ちゃんとここが何か分かっているのだ。
だが。
「大丈夫だ……悪さはしないよ」
菊は──腰から笛を引き抜いた。
※
△
さあ。
菊は、笛に唇をあてた。
お前の歌だ。
一条、二条、三条、四条──
条は、筋であり節であり。
同じ筋道を通り、同じ道理を通る。
ここにお前が在ることも、ここに私が在ることも、全て同じ道をたどった故。
それと同じくして。
日が空に在ることも、月が空に在ることも、全てが同じ道をたどった故なのだ。
その道理を、知らしめせ。
日の下でも美しく、月の下でも美しく咲く花よ。
その身を伸ばし、その手を伸ばし、歌を詠み解き花をほころばせよ──
菊の笛の音に。
大きな気配が動く。
桜の木は、見上げるほど健やかにその身を伸ばすのだ。
枯れた葉が、全て散り落ち。
憐れなほど寂しげな、ただの木となり果てる。
それでいい。
菊は、音を震えさせた。
それでいいのだ。
誰もが振り返りもしない、その悲しいまでの姿。
あと一条、もう一条。
足りない音を笛に込め、菊はそれを目覚めさせようとした。
そんな菊の両の肩を。
後方から、大きな手が緩やかに挟み込む。
そこで、ようやく彼女は気づいた。
笛と木に捕らわれる余り、彼女は彼岸を渡ろうとしていたのだ。
その手は、菊を此岸へと引きとめてくれる。
「───」
その手から、振動が伝わってくる。
身をも震わせる音が、後方から響いてきた。
歌だ。
低く澄み、笛の音に絡み付く月の歌。
この世界の月の神は。
きっと。
男なのだ。
※
菊では足りない春を──呼んだ男がいる。
その男は。
歌を止めた。
止めなければならなかったのだろう。
いま、彼の頭上に広がる光景を、その目に焼き付けるために。
ざぁっと、風が唸る。
枝が揺れ、そこから惜しみもなく花びらが降り注ぐ。
「これを……見せたかった」
菊も、笛を下ろす。
闇の月夜であっても、その美しさは到底消せるものでもなく、逆に花びらの影さえも浮き彫りにする。
紅の混じった墨絵の世界。
太陽の下で見ると、同じ木でありながら、おそらくまったく違うものに感じるだろう。
長い長い沈黙の後。
「帰らぬの……か?」
男は、掠れる声で呟いた。
微かに顎を、後方へ動かす。
彼はまだ、両手を離してはいない。
菊を、此岸に引きとめている。
「これほど力のある木であれば、お前を元の世界に帰してくれように」
言葉に、彼女は笑っていた。
「然るべき時が来たら……考えるよ」
まだ、その時ではない。
ここに来た事に、彼女はまだ意味を見出していないのだ。
「せっかく……言葉も覚えたしね」
散ってゆく。
またたく間に時を失ったように、桜が散り果ててゆく。
それもまた、春。
だが、この世界には、季節がない。
季節がないから、季節の移り変わりを喜ぶこともない。
ただ──この世界の人間は、春の土地へ歩いて行くことが出来る。
「まだ……この世も、捨てたものではないだろう?」
欠けていない二本の脚があり。
彼は、どこへでも行けるのだから。




