夜の旅路
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トーは、街道を避けたがった。
町や村も。
人に会うことを、とにかく拒んだのだ。
だから菊は、こう提案した。
「昼間休んで、夜の街道を行こう……それなら、ほとんど人とは会わないし、会ったとしても大して見られるワケじゃない」
かくして。
夜の旅路となった。
トーに、夜の歌を歌わせようとしたが、彼の唇はまだ重い。
鳴かぬなら──
それから、始まる俳句があるが。
鳴かぬなら 鳴かせてみたい ホトトギス
それが、菊の心だったか。
ダイといる時とは、真反対の感情がそこにはあった。
ダイは、ただそこにあるだけで落ち着く。
彼は、あるがままでいいのだ。
しかし、トーは。
外側を厳重に包装しているものをはいでみたい、という気持ちにさせる。
中から、何かとても大きなものが出て来そうな気がして。
年の頃は、三十くらいか。
時折、月を見上げながら、彼は静かに音を立てないように歩く。
「降るな……」
低い声が、それを呟いた。
トーの声に呼ばれるように、雲がすごい速さで月を多い隠してゆく。
ひとしずくが、菊の額に落ちた。
春雨のように、細かい雨が降り始めたのだ。
目を細めて、暗い空を流れゆく雲と雨を見る。
子供の頃に、祖母が歌っていた歌を思い出す。
「雨降りお月さん 雲の陰」
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく── 一人でからかさ さしてゆく
そういえば、傘は向こうに置いてきたか。
あの雨の日。
三人は、この月の元へと連れてこられた。
「月の歌か?」
小さな雨に濡れながら、トーが顎をこちらへと向ける。
「そう……雨の夜に嫁ぐ歌だ」
菊が答えると、彼は奇妙な瞳をした後に笑った。
「それは、月の歌ではないではないか」と。
「それでも……月の歌だよ」
この感情は──こちらの言葉では、伝えにくかった。
※
夜。
トーとの旅路の夜。
人の気配に、菊は足を止めた。
彼も足を止めるが、その身に緊張を走らせる様子はない。
ふぅっと顎を巡らせて、まっすぐに一点を見つけるのだ。
「兄さん……庵を出たんですね」
一房だけ白い髪をした男が、藪の中から現れた。
呼び方からすると、弟だろうか。
しかし、見た目は明らかにトーよりも年上の姿をしていた。
既に、40は越えているように思える。
「お前は、まだあんなところにいるのか」
だが、兄の言葉は──優しいものでも懐かしいものでもなかった。
「いますよ。そして、何度でも兄さんを説得しに来ますよ」
弟の視線が、ちらりと菊を見る。
「大体……何故、この者と一緒にいるんですか。あの太陽の子と、一時一緒にいた者ではないですか」
鋭い声。
声の中に、敵意がはっきりと混じる。
ああ。
御曹司のことを嫌っているのは、そこからありありと分かる。
そして、菊が同行していた者のことも、知っているのか。
「それが……どうかしたか? 大体、そんなにやりたければ、お前が自分でやればいいだけのことだろう。私を呼ぶ必要などない」
だが、あっさりとトーに斬り捨てられ、更に痛いところをつかれたのか、弟はぐぅっと息を飲んだ。
夜であっても、その頬が微かに興奮を帯びたことに気づく。
「悔しく、ないのですか!」
トーを腰抜け呼ばわりする勢いで、彼は強い言葉を夜空に向かって吐き出した。
それを、兄は虚無の瞳で見つめ返すだけだ。
「ない」
もはや。
弟と話すことさえ何もないと言わんばかりに、トーは歩き出す。
「兄さん!」
無粋に叫ぶ弟の横を、通り過ぎる。
手を伸ばそうとする彼を、トーは右腕をわずかに立てる動きだけで制した。
彼もまた──手で語れる者か。
※
「聞かないのか?」
弟を置き去りに歩く夜。
随分、長い時間の後に、トーが一言だけ言った。
どうしたもんかな。
菊は、ぽりとこめかみをかく。
そして。
鳴かせてみたいホトトギスに、彼女は──聞く以外のことをしてみることにした。
「私は、おそらくよその世界から来た」
自分の話を、することにしたのだ。
よその国とは、言わなかった。
よその世界と。
「ある夜、地が揺れて、世界は真っ暗になった……気が付いたら、夜空にあの月があった」
人から何かを引き出したいと思うならば、菊もまた、何かをださなければならない。
「三人の女で来た。いまは散り散りだが、みな、それぞれここで生きようとしている」
一人は、太陽の側で。
もう一人も、いつかそこへ行くのだろう。
「私には……まだ、何もすることはない。だから、何をするか……探して旅をしているのだろう」
自分のことは、一番不確かだ。
それに困ることが、ないだけ。
ふと。
男の目が、菊に向けられた。
彼女の中心に、一本の軸を入れたように、すぅっと縦に一度視線を動かす。
「そうか……薄々そうではないかと思ってはいたが」
微かに、トーは笑う。
虚無の向こうに、微かな人間味が混じった。
「お前は……女なのだな」
菊は。
月の下で。
「あっはっはっはっは!」
爆笑してしまった。
そこかよっ!!!
トーにとって、異世界から来たというのは──女である事実以下のようだった。
※本編中の歌「雨降りお月さん」の作詞者、野口雨情さんは、1945年(昭和20年)に亡くなられていて、没後50年以上ですので、著作権は失効しています。




