夜の白
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菊は──笛を吹き鳴らしていた。
夜空にかかる曇天の三日月。
峠の岩に腰かけ、彼女は一人旅の空の下で、ただ笛の音を響かせる。
何も、考えてはいなかった。
無から生まれる笛の音は、寂びの音になる。
その音に誘われたのか、人の気配を感じた。
だが、気配に悪意は何もない。
彼女は、意識を動かすことなく、無のまま笛を吹き続けた。
人が、立っていた。
この暗い月夜でも、その髪が白く映える。
そう長くはないが、獅子のように、風をはらんで広がる髪。
虚無に近い瞳が、光りながらこちらを見ている。
鬼か。
その思いは、声にも心にもならなかった。
ただ、本能に感じる響きを、菊はただ受け入れる。
人の生む光は、何もなく。
自然は、あるがまま側に溢れる。
鬼が現れたとしても、おかしくはない。
最後のひとつの旋律を鳴かせ──菊は、笛から唇を離した。
男は、まだそこに立っていた。
近づく様子も、離れる様子もなく、そこから菊を見ている。
「何処へ行く」
鬼が、彼女に問いかける。
「さあ……都へでも行こうか」
急ぐ旅ではなかった。
ただ、一か所にとどまる気になれず、景子と再会の約束をしていたので、顔くらい見せておくか──その程度の旅。
「太陽の都か……」
物憂げな、声。
この鬼は、どうやら太陽を愛してはいないようだ。
夜の魔物ならば、それも当然か。
鬼は、夜空を見上げた。
雲間から、闇の色をした月が現れるのを、じっと見ている。
「月は……嫌いか?」
鬼は問う。
震える響きを、まとっている音。
「太陽も月も……どちらもあるがまま、だ」
どうでもいい質問に、菊は肩をそびやかすと。
鬼は──笑った。
※
質素な庵だった。
峠の大岩の影に、隠されるようにそれはある。
中に入っても、灯り一つともさず、鬼は脚の欠けた椅子に腰かける。
安定の悪いそれを、まったく気にする様子はなく、その身はぴたりと静止する。
菊に勧める椅子はない。
彼女は、おそらく床に使っているであろう長い板の上に腰かける。
「名は?」
静かな静かな夜の中。
菊は、鬼に訪ねた。
「トー」
鬼の名は──短かった。
その視線が、彼女を見る。
「菊……」
そして、菊もまた自分の短い名を答えるのだ。
「世を捨てたのか?」
アルテンに、言葉を習っていてよかったと、彼女はその時初めて思った。
こんなところに、隠遁しているべき器ではないように思えた。
「捨てねば、乱れる世もあるのだ」
空を、見上げる仕草。
いまの夜空にかかっているのは、月だというのに。
「あぁ……だが、世を捨てたところで、必ずしも乱れないわけではないがな」
我知らず、含みを持たせる言葉を吐いていた。
詳しく理解しているわけではないが、うっすらと何か本質のようなものが、この男の向こうに見えたのだ。
「偽物の乱れなど、長くは続かぬ……いずれ、卑しくなり、小さくなって消える」
自分が消えることを、この男は待っているかのように思えた。
そう年を経ていない姿をしているというのに、老人のような枯れさえ感じる。
「……太陽は、嫌いか?」
そんな男に。
今度は、菊が問いかけた。
男は、微かに笑った。
「太陽も月も……どちらもあるがまま、だったか?」
彼女の言葉を、そのまま彼は揶揄するように使う。
それを。
この男が口にした、という事実に、菊は意味を覚えた。
※
「都へ……行かないか?」
菊は、白い髪の男──トーに声をかけた。
おそらく、自分は分かっていて彼にそう言っているのだ。
自分のことだというのに、菊の中には不思議な感覚がわだかまっている。
「私が? 太陽の都へ……?」
面白い冗談を聞いたかのように、彼は笑い声を洩らす。
「そうだ……太陽の都へ」
菊にとっては、冗談などこれっぽっちもない。
「行ってどうする」
彼の指が、白い髪に触れた。
「さあ……美しい月の物語でも、語ったらどうだ?」
この国は、損をしているのだ。
昼と夜は、平等にこの国の上に訪れるというのに、夜を毛嫌いしている。
暗い中でこそ、見える物もあるのだ。
同じように、暗い月だからこそ、そこに輝く意味はあるに違いないというのに。
夜を愛でず、太陽にのみしがみつく世界は、残念ながら菊は余り好きになれなかった。
「面白いことを言うのだな」
欠けた脚の椅子の上。
ゆらりともせずに、トーは彼女を見る。
「歌が得意なら、月の歌でもいいぞ」
無意識に、菊は己の腰の笛に手を触れた。
「歌か……もう長いこと、歌など歌っておらんな」
喉に触れる大きな手。
「だけど、歌を忘れたわけではないだろう?」
そうだ、と。
菊は、ふとあることを思いついた。
ここまで、彼女は都へ行くための旅路を進んでいた。
その初期で、見たものを思い出したのだ。
「都へ行く気にならなければ……一緒に北へ行かないか? 見せたいものがある」
都から、再び遠く離れようと、トーに持ちかける。
いいのだ。
急ぐ旅では、ないのだから。
「北へ?」
「そう、北へ……そこに、美しい夜がある」
それを思い出した菊は、我知らず目を細めていた。




