アディマの憂鬱
□
「どう……なさいました?」
そこで、アディマははっと我に返った。
気づけば、テーブルの杯を倒していて、水がこぼれていたのだ。
「いや……」
側仕えが寄ってきて、水を片づけてゆく。
それを見るともなしに見ながら、アディマは苦笑を禁じ得なかった。
違う。
苦笑にしていなければ、ひどい笑みになってしまいそうだったのだ。
景子が。
あの彼女が、アディマに愛の言葉を囁いたのだから。
それに心をひどく乱してしまい、分身をかき消してしまった。
心配していないといいが。
魔法の身体の説明をしていなかったので、突然消えた彼に、景子は驚いているだろう。
だが。
どこか、彼女は理解しているように感じていた。
全てを理解していた上で、景子はアディマを抱き、そして愛を語ったのだ。
ああ。
いますぐに、この身で彼女の側に飛んで行きたかった。
そして、この目で、この耳で、この唇で、景子の愛を浴びたいと願う。
だが、焦ってはならない。
この王宮に、彼女を何の問題もなく迎え入れる準備は、何も整っていないのだ。
そのための布石として、アディマの妃候補に叔母を挙げたのだ。
そう。
仕掛けていたのは、アディマ自身。
叔母なら、彼の意図していることをすぐにくみ取るはずだ、と。
第一候補が叔母であるならば、他の候補が勝手に行動を起こせないのだ。
何しろ彼女は、髪を伸ばせるイデアメリトスなのだから。
そして、他の誰よりも血も近い。
そんな彼女を差し置いて、誰が婚姻の策謀を出来ようか。
だが。
その出来ない横車を押してくる誰かが、この宮殿にいる。
よりにもよって、叔母の命を狙おうとしたのだ。
しかも、イデアメリトスの祭が始まろうとしているこの時に。
何としてでも──陰謀の主を、捕えなければならなかった。
※
□
大きな祝打が、夜明けとともに打ち鳴らされた。
木でつくられた太鼓は、町中の空気を震わせて、祭の始まりを告げる。
アディマは、眠れぬ夜を過ごした。
昨夜の彼は、眠ることが許されなかったのだ。
夜を照らす太陽の代わりを、果たさなければならなかったのである。
町の人間が、昨夜から前夜祭と称して、夜の町で歌い踊るからだ。
夜も太陽が照らすイデアメリトスの祭として、これから長である父親と、交互に夜を徹するのである。
だが、眠れなくてよかったこともある。
叔母の事件について、手を尽くすことが出来るからだ。
「大丈夫ですか?」
式典用の儀礼服に身を包んだリサーが、彼の前に現れた。
既に、彼の耳には入れてある。
側にはいないが、ダイも影に控えているはずだ。
正式な書類上、この二人がアディマの旅の同行者として記載され、国の歴史として残される。
文ではリサーに、武ではダイに。
これから一生、アディマは助けてもらうつもりだった。
そう。
彼らは、11人の賢者のうちの2人となるのだ。
アディマの寿命さえも決める、人間の内の2人に。
イデアメリトスの長としての在位は、本人の命が尽きるか、任命した賢者11人が全て死した時。
賢者が死した場合、補充はない。
その賢者の仕事に近い府が、代行することになる。
賢者が全て死してなお、世継ぎが成人していない時のみ、在位を続けるのだ。
そのため、どの長も若い賢者を登用することが多い。
リサーとダイの登用については、旅の同行者という誉れもあるため、おそらく誰も拒むことはできないだろう。
たとえ、それが農民出身のダイであったとしても、だ。
「何か……分かったか?」
アディマは、意識を切り替えた。
賢者について考えるのは、まだ先でいい。
それよりも、彼がやらなければならないのは、叔母を狙うものを探すことである。
「それが……怪しい者の情報は……特には……」
ふぅ。
宮殿の内部は、お互いにいろいろつながりがあり、知人の不利になることを言わない者もいるだろう。
やはり──外部の者を入れなければならないか。




