ひじ掛け
☆
「イ、イデアメリトスの日向花……」
ネイディが、口をぱくぱくとしながら、そんな単語を口にした。
ようやく涙もおさまって、景子がアディマを見て照れ笑いが出来るようになった頃のことだ。
開いたままの扉と、そのあたりでうろうろしていたネイディの方を見ると、彼は廊下の向こう側を見て、肝をつぶしている。
「ふふ、素敵な名前で呼んでくれるではないか」
色っぽいようで、妙に芯のある力強い響きの女性の声が、はっきりと部屋の中へと届いた。
イデアメリトス?
きょとんとしていると──アディマが、ため息と共に天を仰いだ。
「うちの愚甥が、おるだろう?」
長い指が、軽くネイディをおしやった。
そして。
部屋を覗き込む、金褐色の瞳。
らんらんと輝く、肉食獣のような色。
それよりもなによりも、アディマと同じように美しく明るく輝く命の光をまとっている。
どう見ても、イデアメリトスの血筋だ。
「叔母上……」
一体、何しにいらっしゃったんですか。
アディマの声には、微かに咎める色合いが浮かびかけたが。
が。
はっと、彼は表情を変えた。
ざくざくとアディマは、叔母に向かって歩き出すと、彼女を部屋に引っ張り込んだ。
そして。
「すまない……少し内輪の話をさせてほしい」
と、ネイディに告げるや。
彼を外に置いて、扉を閉ざしてしまったのである。
え? え?
景子は、キョロキョロした。
内輪の話なら、自分も出た方がいいのではないか、と。
「何だ、このちっこいのは?」
ソファに座ったままの景子を、迫力のある上からの角度で見下ろされる。
よどみない足取りで近づいてくると、その迫力が倍増するのだ。
あわわわわ。
食われそうな勢いに、景子がぷるぷるしていると。
その身体が、ちょっと後退した。
「僕の、伴侶にしたい人です」
引き戻したのは、アディマの手。
はっと振り返った彼女は。
「あ、あははははははははっはは!」
大爆笑を始めた。
※
「あっはっは、このちっこいのに惚れてるのか……あっはっはっはっは」
景子は、頭をがっしがっしとおさえられた。
アディマの叔母によって。
叔母といっても、景子の実年齢よりも若い姿を持っている。
年齢詐欺の実力が、ここでも炸裂していた。
ち、ちぢむ。
頭にのしかかる衝撃は、痛いというよりも重い。
こうやって豪快に笑い飛ばされたおかげで、景子はアディマの発言について、わりと気楽に流すことが出来た。
彼が、どれほど本気になってくれても、周囲にとっては笑い話レベルなのだ。
だが。
今日、アディマが刺されたかもしれないと聞いて、本当に心臓が止まるかと思った。
もし、彼が死んでいたら、自分はどうなっていただろうか。
心の多くを、アディマに奪われていることを、景子は嫌というほど自覚したのだ。
生きて、元気でいてくれたらいいや。
ただ、好きと欲が一致しない。
昔から身体にしみついている、あきらめ根性のせいだろうか。
どう考えても、うまくいかないよね──そう思うと、欲のフタがぱたっと閉じてしまう。
開けると、周囲を巻き込んで悪い結果になるから。
だから。
こんな風に、笑い飛ばされると楽だった。
ああ、箱を開けなくてよかった、と。
「で……そんなことを私に聞かせて、どうしようというのだ?」
爆笑をしまいこみながら、しかし、声にだけは笑みの響きを残しつつ、イデアメリトスの血を引く女性は──景子の頭を、ひじ掛けにした。
ずしっと体重がかかり、ますます彼女の身長を縮めようとする。
「いいえ、何も? ただ、お知らせしておきたかっただけです……あ、言い忘れてました……ケイコは、使えますよ」
挑発的な叔母の言葉に、あのアディマが更に挑発しかえすような響きの声で応戦する。
そして、右手を一度閉じて開くのだ。
「ほう……」
手の動きに、女性は目を吊り上げるように細めた。
その目が。
アディマから景子に向けられる。
「それは、面白い」
何を。
おいてけぼりの景子は、彼女のひじ掛けになったまま、二人のイデアメリトスを見上げるしか出来なかった。




