夫人宅
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日が西に傾きかけた時間。
菊は、その屋敷の前で頭をかいた。
さて、どうやって入ったものか、と。
「キク、どうしました?」
そんな彼女に、後方から不思議そうに声が飛んでくる。
すっかり腰の落ち着いた、いい声になったアルテンだ。
ひょろ長い骨格に筋力がついた身体は、黙っていればいるほど強さを感じるようになった。
まだ、少し浮ついたところは残ってはいるが、昔よりはるかにじっくりと粘れるようになっている。
「いや……何と言って入ったらいいか、分からなくてね」
菊は、苦笑した。
ここは──イエンタラスー夫人とやらの屋敷。
細かい道を覚えてはいなかったが、幸い、アルテンがこのあたりの地理は熟知していたため、迷うことはなかった。
「ああ、なるほど……では私が」
閉ざされた門の金属のノッカーを、アルテンは迷いなく打ちつけた。
カーンカーン。
高く響き渡る金属音。
駆け寄ってくる使用人。
「テイタッドレックの、子息が来たと伝えてくれ」
使用人は、二度彼の顔を見た。
余りに、面変わりしたせいだろう。
途中で手に入れて着替えた衣服も、質素なものだ。
ぱっと見て、貴族のぼっちゃんには、とても見えない。
かろうじて、髪型だけは変わっていないが。
どんな修行中であろうと、アルテンは髪を整えるのだけはやめなかったし、菊もやめさせようとはしなかったのだ。
菊の髪も、肩下ほどに伸びていた。
彼女の場合は、伸ばしっぱなしの分、美しくはなかったが。
ああ、髪切りたい。
それが、菊の正直な気持ちだった。
しばらくの後、使用人は門へと戻ってくると、恭しくそれを開き始める。
女主人に、話が通ったようだ。
さて、と。
我が相方は、生きてるかな。
微妙にシャレにならないことを考えながら、アルテンに続いて菊は門の中へと踏み込んだのだった。
※
「あら」
「へぇ……」
それが、久しぶりの双子の対面だった。
「汚くなったわね」
「老けたな」
お互いの久しぶりの印象を、容赦なく口にするものだから、一瞬お互いを睨みあった後──ニヤっと笑うハメとなる。
老けたというのは、失礼な表現だったかもしれない。
昔より、更に落ち着いた気がしたのだ。
まだ若いのに。
アルテンは、先に夫人との対面をしているはずだ。
菊は、控えの部屋とやらに押し込められていたが、そこに梅が現れたのである。
「アルテン坊ちゃんの、面倒を見てくれたんですってね」
長らく、気にとめていたのだろう。
梅が最初に出した話題は、それだった。
「いい男になったよ……蹴り出して正解だったな」
菊は、お世辞は言わないし、歯に衣も着せない。
だから、言った通りに梅は受け止めているはずだ。
「少年部の子供たちを見てたから、分かるわ……でも、最初よく言う事を聞いたわね」
ああ。
梅の言わんとしている事が分かって、菊はうっすらと微笑んだ。
「言う事、聞くわけないだろ? でも、奴は逃げなかったから……楽だったよ」
最初の頃。
毎日毎日、身体が動くようになったら、アルテンは打ち込んできた。
とにかく、菊が憎くてしょうがないようで、何とか地に伏せさせようと、ただそれだけを狙っていたのだ。
これが、逃げるタイプだったなら、菊はそのまま放置しただろう。
戦うのが嫌、痛いのはもう嫌、ではなく──アルテンは、逆にスッポンのようにしつこかった。
そのしつこさが、幸いしたと言っていいだろう。
少しずつ少しずつ、菊の戦い方を真似るようになった。
よく見るようになった。
そして。
ようやくにして、アルテンは彼女の強さを認めたのだ。
坊ちゃんの割に丈夫な身体を持っていて、本当によかった。




