学校
☆
私、なんでここにいるんだろう。
景子は、自分より小さい子供たちに囲まれながら、照れまくっていた。
イデアメリトスの長の計らいで、一日の半分を町の子供が通う学校の初等科に行くことになったのだ。
メインとなるのは、読み書きだ。
初等科も始まって、結構な月がたっているようで、景子はちびっこたちのいじめの的だった。
「こんなに大きいのに、字も書けないんだー」
と、板を片手に四苦八苦する彼女に、ひやかしが飛ぶ。
いじめられる側の景子は、それをにこにこしながら受けていたが。
板に、指で白い粉をつけて字を書く。
指で消して、粉を落とせば何回でも書ける。
粉を別の椀に戻しておけば、多少汚れてはいるものの、再度字を書く練習に使えるのだ。
紙は、本や役所の保管資料としては使っているが、子供の勉強に使えるほど普及はしていないらしい。
紙かあ。
確か、紙は木材から──「それ、字違う~」と、突っ込まれて、慌てて思考と指を止めて書き直す。
教室の窓は、暑いせいで開け放されている。
それが、よいこともあるのだと、景子は窓の外を見る度に思った。
学校に通えない子も、いるのが現状だ。
だが、その中でも、勉強したいと思っている子もまた、いるわけで。
窓の外で、教室を時々覗いている子を、景子は見つけた。
帰り際に窓辺を通ると、その地面には、一生懸命文字を練習した跡が残っている。
そんな姿を見ると、胸がキュンとしてしまう。
多分、自分の中で放置している、母性とかいうもののせいだろう。
あれもこれも。
現代からきた景子には、はやる気持ちがたくさん湧き上がる。
しかし、彼女一人では出来ないし、長くかかるものも多いだろう。
何をやるにつけ、先立つものがいるのが、現実なのだ。
とりあえず。
景子は、作物の収穫量を上げ、国庫を潤す──それが、よりよいことにつながると考えて、頑張るしかなかった。
ああ、時間っていくらあっても足りない。
この年になって、屋敷の前で焚かれているたいまつの下の地面で、文字の勉強をする羽目になるとは、思ってもみなかったのだった。
※
「ケーコ、今日も学校かい? ほら、お前も行かなくちゃ」
女中頭のネラッサンダンは、息子の背中を押した。
学校で会った男の子が、彼女の子であるのを知ったのは、三日ほどたってからだった。
屋敷にいる間は、彼は部屋にこもっていることが多く、顔を合わせたことがなかったのだ。
使用人エリアからは、子供は絶対に出さない。
それが、彼女の働く条件だという。
ネラは、なけなしの給金で息子を学校にやっている。
下っ端でもいいから、役人にしたいと願っているのだ。
「行こうか、シェロー」
呼びかけると、初等科のちびっこはムッとした顔をした。
「シェローハッシュって呼べよ」
勝手に短くすんな。
「はいはい、シェローハッシュ。学校に行こうか」
そして、景子は学校に行く間、この小さな子と一緒に歌を歌うのだ。
シャンデルに習った、言葉を覚える歌。
空中に指で、覚えた文字を描きながら。
それに、もう一つ歌をつけくわえる。
九九の歌。
こちらの数字の音に直し、九九の暗唱用にと景子が作ったのだ。
足し算と引き算を、子供は学校でマスターするのだが、掛け算や割り算になると、初等科では難しすぎるという扱いになっている。
シェローと、一の段から歌を歌いながら歩き、景子は彼に九九を仕込もうとしたのだ。
役人になるならば、きっと役に立つはずだと。
既に彼は、二の段までマスターしていた。
作った歌を教師に聞かせたが、彼は奇異の目で景子を見るだけだった。
残念。
そんな景子であったが、猛勉強の甲斐あってか、初等科の国語は何とか及第点をいただけるようになった。
今度は、中等科に放り込まれる。
10歳くらいの、子供たちの集まるところだ。
シェローと教室は離れてしまったが、一緒に通うことは続けながら、景子はついに、彼にとっての難関、七の段をマスターさせたのである。
七の段って、鬼門よね。
うう、よかった。
景子は、まるで自分のことのように喜んだのだった。
※
七の段をクリアしたシェローにとって、八と九の段は、単なる歌に過ぎなかったようだ。
あっさりと、覚えてしまったのである。
「ケーコ、俺、計算早いってほめられた!」
19日の休みの日、部屋を襲撃しに来たシェローが、嬉しそうに飛びついてきた。
「よかったねー。すごいねー」
それを、ニコニコしながら抱きとめる。
景子は、高等科に送られることになっていた。
シェローと、途中までしか一緒に通えなくなる。
校舎が別なのだ。
15歳くらいの子たちが集まるところで、なおかつ、町の子の中でも裕福な層しか行けなくなる。
問題はここからだと、職場のネイディに言われていた。
ネイディも、この学校出身だったのである。
高等科からは貴族の下の方と、裕福な商人の子などが、同じ校舎で勉強するのだ。
教室には、一人兵士が立っているという状態で。
何故、兵士が立っていなければならないか。
上の貴族にいじめられる立場の貴族の子息にとって、町の子は格好のいじめの対象だからだ。
その騒ぎは、とても教師だけで収められるものではなく、ついに兵士を置くようにしたというのである。
そこまでして、何故貴族と町民を一緒にするのか。
だが、それはイデアメリトスの長が、決めたことだという。
おそらく、競い合わせることにより、どちらも勉学に励ませよう──そう思ったのだろう。
さすがに、勉強が専門的になってきた。
難しい言葉や、国の仕組みで右往左往することはあったが、算数で困ることはなかった。
中学程度の数学でも、ここでは十分高等なものだったからだ。
「何で、大人がこんなとこ、通ってんだよ」
ただし。
貴族のおぼっちゃん方の目からは、逃れられなかったが。
「お仕事です」
農林府の役人の証でもある、緑と黄色のスカーフを、景子は持ち歩いていた。
学校が終わったら、出勤しなければならないからだ。
そのスカーフの威力や絶大で。
将来、役人になろうと考えている子供たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていったのだった。
※
☆
「学校は、どうだい?」
ネイディは、出勤してきた景子に声をかける。
「スカーフのおかげで助かったわ」
腕章のように、二の腕で結んだそれを見せる。
「ああそうか……役人の機嫌を損ねると、役人になるのに不利になるって思うからな」
愉快そうに、彼は笑った。
この国は、れっきとした階級社会なので、職業の選択が家柄によって限られる。
一般人がなれるのは、よくて下級役人まで。
下級貴族が、中堅役人まで。
要するに、景子がなれるのは、下級役人まで、ということだ。
女性で、役人の試験を受ける人間は、ほとんどいないのが実情なのだが。
もうすぐ、学校も卒業だろうな。
景子は、書類を見ながらそう思った。
ゆっくりだが、大分理解できるようになったのだ。
本も、あまり専門的なものでなければ、何となかる。
読めるようになって分かったことは、農業の専門書というのは、皆無に等しい、ということだった。
そう遠くなく、景子は農村への聞き取り調査にでも、出ようかと思っていた。
彼女の考えたことを、実行に移す時が近づいてきたのだ。
幸い職場では、景子は放っておくこと、が決定しているようで。
『外畑行ってきまーす』、などで、許されている。
それもこれも。
初日の、ザルシェ訪問が効いたのだろう。
あの時、景子はネイディと内畑にいた。
振り返るとネイディはいなかったのだが、彼はザルシェの側近に席を外させられていたというのだ。
イデアメリトスの長が、わざわざ景子を訪ねてきた。
その威力は、リサーの父の名よりもビカビカに輝いてしまったのである。
だが。
本人は、いたって冴えない女で。
毎日顔を合わせている内に、ネイディだけはようやく普通に接してくれるようになった。
おそれおののいているのが、馬鹿らしくなったのだろう。
そして、景子は相変わらず冴えないまま。
「内畑に行ってきまーす」と、出て行くのだった。




