アディマ
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陽炎が、立っていた。
アディマバラディムルク・イデアメリトス・サハダビル17は、己の目を疑った。
この中季地域で、陽炎が立つことなどありえないからだ。
しかも、陽炎があるのは、幼い木の周辺のみ。
景子が飛び込んだ、円の中だけである。
何らかの魔法領域であるのを、アディマは気づいた。
自然の生物は、ごくまれに魔法領域を作る。
そのごくまれが、ここで起きたわけだ。
しかし、その幼い木は、元々ここにあったものではない。
ケイコが、連れて来た木だ。
ニホン、という国から。
暑季地域の木々のように、眩しい青葉をつけたその枝。
その木に、ケイコはまるで語りかけるように触れる。
彼女の指に触れた木は、激しく慟哭した。
そのまま、木は一気に大きく育った──気がした。
勿論、それは幻だ。
しかし、アディマに幻を見せたのだ、この木は。
この世界で、数少ない魔法の血を持つ一族、イデアメリトスである彼に。
計り知れない力を、この木が内包している証拠だった。
はっと、我に返った彼が見たものは。
まだ、幻に捕らわれているケイコの姿。
遥か高い位置にある、繁る青葉に目を奪われている。
さぁっと、血が引いた。
彼女の瞳が、違う世界を映したからだ。
その黒い瞳の中に、見知らぬ野山や生き物が見えたのである。
あの木は。
ケイコを連れて行く木だ。
それを、アディマは気づいた。
おそらく、元いた場所へ。
本当ならば、それが自然なことだ。
彼女は、元々ここの住人ではないのである。
帰りたくないはずもない。
だが。
「ケイコ!」
帰したく──なかった。
※
彼女に出会ったのは、夜の草原の真ん中。
太陽の目を持つアディマには、暗さはさしたる障害ではない。
しかし、ケイコもまた暗い中、向かってくるアディマたちを捕えていたのだ。
彼女に近づいた時、その黒い目は──アディマの金を反射した。
一瞬だけ、激しく金色が閃いたのである。
何か、言葉に出来ないものを、ケイコは持っていた。
不思議な丸い硝子を鼻に乗せ、見なれぬ髪と服の彼女は、そうして何度となくアディマの視線を奪ったのである。
後に、ケイコが魔法の力を持っていると分かった時、胸がしびれた。
世界に、魔法の力を持つ一族は、3つしかないと言われている。
1つは滅び、1つはごくわずかが、北の寒季地帯に隠遁している。
残りの1つがイデアメリトス。
そこに、どこの血筋でもない魔法の力を持つ娘が現れた。
彼の目を、惹かずにはいられない、不思議な娘。
イデアメリトスの血を、できるだけ濃く次代に受け継がせるため、婚姻は親族内で行うことが多い。
だが、そのために、虚弱な子が生まれることも多かった。
兄二人が、そうだったのだ。
そのため、彼らは成人の旅を失敗した。
『外の血が、必要かもしれんな』
カラナビル16である父親は、二人の息子の失敗に、そう呟いたのである。
その言葉は、アディマに聞かせたものではなかった。
髪を伸ばしている父親は、いまだ三十ほどにしか見えない。
もしも、彼の四人の子供が全て失敗した場合、イデアメリトス以外の女性との間に子を成そう、とでも思ったのだろう。
だが、彼は旅を成功させた。
となると、都に戻って待っているのは、世継ぎの話と婚姻の話となるだろう。
イデアメリトスではなく、魔法の力を持つケイコは、彼の伴侶にうってつけに見えた。
いや、逆だ。
目を──いや、心を奪われた相手が、魔法の力を持ってたのだ。
伴侶になるべき運命だと、どうして思ってはいけないのか。
魔法領域の木から彼女を引きはがし、自分の胸に強く抱きしめながら、アディマはうまく息を整えられずにいた。
※
早く、都に戻りたい。
アディマは、そう願った。
一歩でも遠く、ケイコをあの木から引きはがして、忘れさせたかったのだ。
しかし、まだ十九になって間もない。
二十歳にならなければ、アディマは都に入れないのだ。
子供の身体の間にはなかった感情が、勝手に自分の中で育ってゆく。
その育つ枝の先には、ケイコがいる。
「リサードリエック」
夜番に、珍しくリサーが起きていた。
ダイも起きているが、二人が仕事以外の話をすることはほとんどない。
身分も階級も所属も、全て異なるからだ。
「これは我が君……眠れませんか?」
女二人が、すやすやと眠っている姿をちらと見て、彼は近寄ってくる。
「いい……少し話をしたくてね」
その動きを手で制し、アディマは二人の間に腰を下ろした。
「話……ですか」
リサーは、微かな警戒を見せる。
それも、しょうがないことだろう。
ケイコたちが旅に加わってからというもの、アディマは彼を困らせ続けているのだから。
「ケイコを、農林府に置こうと思っているのだが……」
言葉に、リサーは若干警戒を解いた。
「良い判断だと思います……後見が必要でしたら、私の父の名前を使われるとよいでしょう」
微塵も反対する気配がないのは、彼がケイコの力を目の当たりにしてきたからであろう。
そして、リサーは自分の父親を持ち出す。
総務府の府長の後見であれば、十分な威光を持ってケイコを守るだろう。
「出来るだけ早く、彼女を都へ入れたい」
何の障害もなければ、四カ月ほどで都に入れる。
だが、アディマに付き合わせると、更に半年近く都の外で待たねばならないのだ。
「何故、急がれます?」
「ケイコの名前を、出来るだけ早く売るためだ」
アディマが都入りすれば、世継ぎの話が動き出す。
そうなる前に、父への手紙とケイコを、都に入れておきたかったのだ。
ケイコが役に立つ者で、魔法の力を持ち、この国のいかなる勢力とも無関係であることが分かれば──父親を味方につけることが出来るかもしれない。
それが、アディマが考えたことだった。




