梅の木
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景子の準備を、使用人に任せると、梅は自室を出た。
自分の準備など、出迎えの時から済んでいるのだ。
夫人は、更に着替えをするだろう。
梅も、そうするつもりだったのだ。
しかし、事情が変わった。
着替えよりも、行くべきところが出来たのだ。
どの部屋が、誰に割り当てられるかなど、彼女はよく知っていた。
その中の、一番いい客間のノッカーを鳴らす。
「梅、と申します。少しばかりのお時間を、いただけませんでしょうか」
丁寧に、しかし意思を込めて呼び掛ける。
「どうぞ……」
穏やかな許可の声に、ゆっくりと梅は扉を開いた。
「久しぶりだね、お元気そうで何よりだよ」
短くなった髪は、艶やかに整えられている。
衣装も、だ。
晩餐の準備は、とうに終わっていた。
「旅の間……」
勧められたソファーに腰を下ろし、静かに梅は唇を開く。
「菊と景子さんが、大変お世話になりました」
丁寧すぎるほどゆっくりと、それを言葉にするのだ。
イデアメリトスの彼は、微かに空気を変えた。
言外に含まれるものに、気づいたのだろう。
「それで……景子さんの事なのですが」
梅は、一度言葉を切った。
そして、彼の顔を見た。
イデアメリトスの彼は――真っすぐに梅を見ている。
「景子さんは……ここに残りたいと言っています」
金琥珀の目を、強く見つめ返した。
心の弱い者なら、走って逃げるほどの気を込めて。
「馬鹿な」
即座に、否定された。
信じられないという言葉だ。
思わぬ語気の強さに、梅が驚いてしまうほど。
「そんなはずはない。ケイコは、僕と都へ行く」
自分の言葉を、一寸も疑っていない声。
梅の方が、気圧されそうになる。
話が、さっぱり噛み合っていない気がした。
「何故、僕が伴侶になるつもりの相手と、離れなければならない」
そして。
とどめが炸裂した。
あらら?
おかげで梅は──すっかり混乱してしまったのだった。
※
晩餐の後、梅は景子と話をしようと思っていたのだ。
しかし、その話の場は、変則的なものになった。
彼が、すぐに梅の部屋を訪ねてきたからである。
あら。
「ケイコと少し話をしたいのだが……」
苦笑混じりの青年に、梅はにっこりと微笑んだ。
「ええ……ただ、私も同席してよろしいでしょうか?」
さっきまでの食い違いの原因を、彼女も気になっているのだ。
幸い、ここは彼女の部屋で、景子もここにいる。
それに──上に立つ者は、プライバシーというものが少ないのだ。
彼は、こういった話を、人に聞かれるのは慣れていると読んだのである。
「ああ……構わないよ」
予想通り、すぐに許可が出た。
周囲にいる人間を、ただの木程度に見ることなどたやすいのだろう。
梅が同席することに、景子はほっとしているようだった。
「ケイコ……ここに残りたいと聞いたんだが……」
景子と梅、向かいにはイデアメリトスの男。
そんな構図で、話は始まった。
景子が、びくっとしている。
誰がこの話を彼にしたかは、一目瞭然だ。
しかし、彼女は梅に非難の視線など向けなかった。
「わ……私が都に行っても……居場所がありそうにないから」
景子の現地語は、鮮やかだった。
訛りはあるものの、生活に密着した生きている言葉だ。
それを、梅は心地よく聞いていた。
いまの彼女は、この空間では、ただの梅の木。
ただ、静かに言葉や空気の流れを、見守るだけでいいのだ。
「何故、そんな風に思う? 僕の隣にいればいい……そう言ってるだろう?」
穏やかだが、強い音。
言い聞かせるように、我慢強く景子に語りかける男の声。
「だって……都へ行けば思い知るもの……あなたがとても遠い人で、あなた以外の誰も、私を望んでいないことを」
梅は。
目を閉じた。
景子が言わんとしていることが、痛いほどよく分かったのだ。
たとえ、大丈夫だと言葉だけで言われたとしても、それで安心できるはずなどない。
ふふふ。
梅は、小さく笑ってしまった。




