幼き初恋 暗闇の傷2
劉嶺屋敷の門の前には、この家の主とその一家の姿があった。見送られる側にいる穏やかな微笑をたたえた彼こそ『その存在だけで人々の心を癒す』慈悲深き公子と名高い皇国公子 劉嶺その人である。
「それでは、皇慈院へ行ってくるよ」
「いってらっしゃいませ。あなた」
「お気をつけて父上」
嶺はふと自分の見送りのために門の前で控えていてくれている者たちをざっと眺めた。
妻の木蓮に息子の信明。そして、使用人たちだけである。
「ところで、水蓮の姿が見えないようだが・・・・。何かあったのか?」
「心配ありませんわ。さっきまで、お父様と皇慈院に行きたいと駄々をこねていたので、不貞腐れて部屋にでもこもっているんですわ」
「水蓮が私と一緒に行きたいと・・・・。なんて可愛いことを言ってくれるんだ。では、水蓮も一緒に・・・・」
そう嶺が言い、水蓮を連れてこようと門の中に入ろうとした瞬間、嶺の最愛の妻、木蓮がもの凄い形相で怒鳴った。
「いけません!」
嶺は木蓮に睨まれ詰め寄られ、少しオドオドしながら言った。
「やっぱり、・・・・駄目か?」
「あたりまえです。あなたは今から皇慈院へ何をしに行くんですか。遊びにいくんですか?」
「いえ。仕事です」
「仕事場に子どもと一緒に行く親がどこにいます。それに、水蓮は新年の奉納舞を神に捧げるお役目を頂いております。数日後には本番ですわ。みっちり練習させなければなりません。今日も舞の先生がいらっしゃるのです。あの子に遊んでいる暇などありません」
木蓮の勢いに押されタジタジの嶺は少し脂汗をかきながら妻を宥めた。
「わかった。わかった。わたしが悪かった。すまない」
「わかればよろしいのです。では、行ってらっしゃいませ。道中お気をつけて」
「うん。留守を頼むよ」
少々苦笑いをしながら嶺は木蓮に見送られ皇慈院へと向かった。
馬車で走ること五分。劉嶺宅が完全に見えなくなったところで、嶺は行動を開始した。
「さてと、そろそろ、でてきなさい、水蓮。馬車に忍び込んで何をするつもりなのかなぁ」
本当ならいるはずもない娘に劉嶺は語りかけた。すると劉嶺が座っている椅子の後ろから可愛らしい紅葉のような手がでてきた。
「そこか」
「きゃー」
出てきた手を掴むとそのまま上へ持ち上げ膝の上に乗せた。
「お父様。どうして、私が乗ってるのがわかったの?」
「水蓮は諦めが悪いからね。駄目と言われても挑戦し続け、蔵にでも閉じ込められるまでやるだろ? でも閉じ込められてる感じもないし、じゃあ、今のところ水蓮の作戦は成功してるのかなぁと思っただけだよ」
水蓮は嶺の話を聞いて不満そうな声を上げた。
「私の行動はそんなに分かりやすいのですか?」
嶺はクスッと笑い、水蓮に答えた。
「しょうがないよ。私は水蓮のお父様だからね」
「でも。お母様にはバレなかったわ」
「今日は、皆忙しかったからだよ。次はバレる。ところで、水蓮。今日は舞の先生が来る日だと聞いたよ。サボったりなんかしたら、先生もお母様も鬼のようにカンカンに怒るぞ」
嶺は出発前の木蓮の形相を思い出し、水蓮に言った。
「そんなこと承知の上よ。お父様。先生やお母様に怒られるのは、とてもとても恐いわ。でも、今日はどうしても皇慈院に行かなくてはならないの」
「ほぅ。それは、なぜかな?」
嶺は水蓮の顔を覗き込み聞いた。水蓮の頬っぺたが少し赤くなっている。
「それは・・・」
「それはぁ?」
「内緒です!」
最後は勢いよくプイっとそっぽをむいてしまった。
「そっかぁ。内緒かぁ」
水蓮の可愛らしい仕種にハハハハハと笑いながら水蓮の頭をなでた。なでられている方の水蓮はというと、不安になって嶺の顔を見上げた。
「お父様」
「なんだい?」
「私を家へ帰してしまいますか?」
嶺はにっこり微笑み言った。
「どうしようかなぁ」
「お父様! 今日だけ見逃して。見逃してくれたら、もう我儘言わないし、お父様のいうことは、なんでも聞きます。お願い」
水蓮は目をウルウルさせ、手を合わせ父親に懇願した。そんな水蓮を見た嶺は『う~ん』と唸った。嶺は年を取ってから生まれた末っ子の水蓮を『眼に入れても痛くない』と周囲に漏らすほど溺愛しているのだ。
「お母様の言うことも、ちゃんと聞くかい?」
「はい」
「舞の練習をサボったりもしないかい?」
「はい。しません」
嶺は真剣な顔をして、片手を胸の上に置いて言った。
「自分のここに誓って約束できるかい」
水蓮もまた片手を胸に置き、嶺の目を見つめ返しながら答えた。
「自分の命と心に誓って約束します」
水蓮の答えを聞き、嶺は満面の笑みを浮かべた。
「わかった。じゃあ、今日は特別だぞー」
「きゃー。ありがとう。お父様。大好き」
水蓮のおねだり作戦は大成功。結局水蓮の同行を許してしまった。『帰宅後の妻の反応が恐いが仕方ない』と密かに心の中でため息をつく嶺であった。