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君と一緒に死にたい

掲載日:2026/09/19

こめんとくれ

夜灯の改札で

 最終の魔導列車が出る三十分前に、僕は待ち合わせの駅に着いた。


 ホームの端のベンチに座って、通信板を握りしめる。手のひらほどの薄い石板には、三日前から続いている「夜灯板」のやりとりが浮かんだままだ。相手の名前は「しおり」。紹介欄は空白だった。


 僕は二十九歳で、独り身で、魔導工房の日雇い契約は先月切れた。自分がいなくなって困る人を頭の中で一人ずつ数えてみたけれど、指が一本も折れなかった。この一週間、僕が声に出した言葉は「袋はいりません」の一言だけだった。そんなとき、夜の隅にある匿名の板の上で、同じことを考えている人を見つけた。それだけのことだった。


〈改札を出たところの、灯りの屋台の前にいます。黒い革の鞄を提げています〉 〈わかりました。ぼくは灰色の外套です〉


 「うみ」というのが、僕の名前だった。もちろん本名じゃない。本当は、カイル・マレという。


 改札を出ると、夜通し灯りをともした屋台の前に、女の人が立っていた。黒い革の鞄。肩までの髪を、左手で耳の後ろにかける。その仕草に、なぜか胸の奥が小さく鳴った。


「……しおりさん、ですか」 「はい。えっと、うみさん」 「はい」


 それだけ言って、二人とも黙った。夜の駅前は魔石灯で妙に明るくて、僕らだけが場違いに思えた。


「とりあえず、歩きませんか」と彼女が言った。「ここに立ってると、目立つので」


 僕らは、板戸の降りた店ばかりの通りを並んで歩いた。街角の魔石灯だけが白く光っている。


「変ですよね」彼女が言った。「初めて会った人と、こんなふうに」 「変です」 「ですよね」


 少し笑った声だった。笑うんだな、と思った。あの板に書き込むような人は、笑わないものだと勝手に思っていた。自分自身、この三日間ほとんど笑っていない。


「出身は、王都の人ですか」と僕は聞いた。何か話さなければ、足元から夜に飲まれてしまいそうだった。 「王都というか、ここから列車で四十分くらいの、海のある町です。何もないところ」 「僕もです。海があって、何もない」 「駅前に、揚げ芋の店があって」 「『ポルト』」


 言ってから、二人で立ち止まった。


 彼女が僕を見た。魔石灯の下で、目の形がはっきり見えた。


 僕は学院で過ごした三年間の教室を思い出していた。窓際の後ろから二番目の席。授業中、羽根ペンの軸の先で机を三回、小さく叩く癖。考えごとをしているときだけの、あの音。僕は三年間、あの音を聞いていた。


 彼女はいま、右手の指先で、革の鞄の持ち手を三回、叩いていた。


「……アルヴェ、さん?」


 声が出たあとで、取り返しのつかないことをした気がした。


「え」 「あの、最終学年の二組の。リーゼ・アルヴェさん」


 長い沈黙のあと、彼女は両手で顔を覆った。肩が震えて、泣いているのかと思った。違った。笑っていた。


「うそでしょ」指の間から声が漏れる。「うそ、なんで。よりによって」 「僕も、そう思う」 「待って。ええと」彼女は顔を上げた。「窓際の……マレくん? カイル・マレくん?」


 覚えられているとは、思っていなかった。


 僕らは閉まった板戸の前の段差に並んで座った。あまりにもばかばかしくて、立っていられなかったのだ。


「『うみ』って、マレのこと? 古語で、海」 「うん。『しおり』は」 「栞。図書塔の係だったから」 「知ってる」 「なんで知ってるの」 「……見てたから」


 言ってしまった。二十九歳の、死ぬつもりで来た男が、十数年ぶりの片思いをこんな形で白状している。もう何を言っても同じだ、と思った。


 図書塔のカウンターで、彼女が返却の印を押す音を覚えている。最終学年の秋、僕は読みもしない本を毎週借りて、毎週返した。あの一秒か二秒のために。一度だけ、彼女が返却された本の表紙を見て「これ、面白いよね」と言ったことがある。僕はその本を、それから十回読み返した。感想を伝える機会は、結局、一度もなかった。


 彼女は少し黙ってから言った。


「マレくんはさ、軽石の粉、集めてたよね」 「え」 「授業中。羊皮紙の書き損じを軽石でこすって、出てきた粉を、机の上でちっちゃい山にして。授業が終わると、全部手のひらで払って、ごみ箱まで持っていくの。一回もこぼさずに。私、あれずっと見てた」 「……嘘だろ」 「変な人だなって思ってた。でも、なんか好きだった。誰も見てないところで、ちゃんとしてる感じ」


 頭の中で、何かが音を立てて動いた。


 僕は、誰にも見られていないと思って生きてきた。教室でも、工房でも、その後の狭い部屋でも。誰も気づかない、誰も困らない、だから消えても同じだ、と。その前提が、駅前の冷たい段差の上で、あっけなく崩れた。十数年前の教室に、ちゃんと見ていた人がいた。


「ごめん」と僕は言った。何に対する謝罪なのか、自分でもわからなかった。 「なんで謝るの」 「いや、なんとなく」 「変わってないね」


 彼女はまた笑って、それから、ふっと笑いを引っ込めた。


「ねえ。私ね、今日ここに来るまで、すごく静かだったの。何も感じなかった。それで来たの。でも今、めちゃくちゃうるさい」 「うるさい」 「頭の中。恥ずかしいとか、可笑しいとか、悔しいとか。どうして学院にいたころ、話しかけなかったんだろうとか」 「僕も」 「うそ」 「うるさい。たぶん、三日ぶりに」


 夜風が、潮の匂いを少しだけ運んできた気がした。ここは海から四十キロも離れた駅なのに。気のせいだろう。


「書記局の仕事とか、いろいろ、続けるのが限界だったの」と彼女は言った。「誰にも言えなくて。一人でいるのが怖くて、それで、あの板に書いた」 「うん」 「知ってる人と、こんな話をするなんて思ってなかった」 「僕も」 「マレくん」 「なに」 「今夜は、やめない?」


 僕は答えられなかった。答えを持っていなかったからだ。三日間、いや、もっと前から、僕の中には一つの結論しかなかった。それが、たった一つの記憶で、ぐらぐらと揺れている。揺れているだけで、倒れてはいない。


「今夜『は』でいいの」と彼女は続けた。「明日のことは、明日考えよう。今日は、軽石の粉の話でもして、夜を過ごそうよ」 「軽石の粉」 「あと、揚げ芋の話とか」


 僕は笑ってしまった。笑い方を忘れていたはずなのに、喉のあたりから勝手に変な音が出た。


 途中の屋台で、彼女が薬草茶を二つ買った。「はい」と渡された陶器のカップは、指先がしびれるほど熱かった。持ち替えて、また持ち替えて、それでも手放さなかった。熱いということが、妙に嬉しかった。


 駅の反対側に、夜通し開いている食堂「金の錨亭」があった。窓際の席に向かい合って座り、僕は薬草茶を、彼女は蜂蜜入りの温かい乳を頼んだ。窓の外はまだ暗い。


「卒業の式典の日のこと、覚えてる?」と彼女が言った。 「覚えてる」 「私ね、あの日、図書塔にいたの。最後だから、もしかしたらマレくんが来るかなって。来なかったけど」 「……行った」 「え」 「図書塔の前まで行った。でも、扉の前で引き返した。何て言えばいいのか、わからなくて」


 彼女は数秒、僕の顔をじっと見てから、テーブルに突っ伏した。


「なにそれ。十三年、遅いよ」 「ごめん」 「ううん。私も、待ってるだけだった」


 それから僕らは、離れていた十三年分を、途切れ途切れに交換した。彼女は王都に出て書記局の事務をしていたこと。僕は故郷の港の工房に入って、辞めて、転々としたこと。お互い、ほとんど誰にも連絡を取らなくなっていたこと。同じ王国の空の下で、それぞれ別の場所で息を詰めていたのだ、と思った。


 三時を過ぎたころ、彼女が「ちょっと」と言って席を立った。五分経っても、十分経っても戻ってこなかった。僕はメニューの端を意味もなく折りたたんでは伸ばし、手洗いの方向を何度も見た。声をかけに行くべきか、放っておくべきか、わからなかった。


 二十分ほどして、彼女は戻ってきた。目が赤かった。


「ごめん。急に、怖くなって」 「うん」 「ふざけてると思う? 会ってすぐ、こんなに笑ってたのに」 「思わない。僕も、さっき窓に映った自分の顔を見て、同じだった」


 嘘だった。僕は席から一歩も動いていない。けれど、彼女の顔を見たら、そう言うのが一番正しい気がした。彼女は「そっか」と小さく言って、椅子に座り直した。


 蜂蜜を三さじも入れる、目の赤い、疲れた二十九歳の人が、目の前に座っていた。僕がずっと好きだったのは、記憶の中の完璧な「リーゼ・アルヴェ」だったのかもしれない。けれど、いま目の前にいる本物の彼女は、記憶よりもずっと不器用で、ずっと生々しかった。それでも、いや、だからこそ、この人を夜の中に置いていくことだけは、どうしてもできないと思った。


「楽になったわけじゃないんだよね」と彼女が言った。 「うん。全然」 「でも、今日は、ここにいたい」 「僕も」


 それで十分だ、と思った。十分だと思えたことが、少し不思議だった。


「朝になっても、まだだめそうだったら」と彼女は言った。「ちゃんと、誰かに話しに行こう。聖堂の相談所でも、癒し手のところでも、なんでも。一人じゃなくて、一緒に」 「……うん」


 言葉にしてみると、ずいぶん普通のことだった。その普通のことを、僕はずっと言えなかったのだ、と気づいた。


「あのさ」と彼女が言った。「軽石の粉、今もやってる?」 「やってない。もう羊皮紙を使う仕事じゃないから」 「そっか」 「でも、なんか、やりたくなった」 「ふふ」


 彼女は鞄から小さな羊皮紙の切れ端と、羽根ペンと、軽石を取り出した。図書塔の係だった人らしい、と思った。切れ端に何かを書いて、こすって消して、出てきた粉を、僕の前にそっと押しやった。


「はい。集めて」 「……ええ」 「ほら」


 僕は指先でそれを小さな山にした。ばかみたいに真剣に。彼女は頬杖をついて、それを見ていた。学院の教室と同じ角度で。


 窓の向こうが、少しずつ薄い青に変わっていく。


 朝は、来た。来てしまった。それが救いなのか、ただの事実なのか、僕にはまだわからない。ただ、目の前の彼女が「朝だね」と小さく言って、それから「おなか、すいた」と続けたので、僕は「うん」と答えた。


 二人で朝の定食を頼んだ。運ばれてきたパンは、少し焦げていた。焦げたところを彼女が「ここ、いる?」と僕の皿に移して、僕は「いる」と答えた。


 それが、その日の最初の、ちゃんとした会話だったように思う。


 店を出ると、始発の魔導列車の汽笛が遠くから聞こえた。彼女は歩きながら通信板を取り出し、「しおり」という名前を、その場で「リーゼ・アルヴェ」に書き換えた。僕も真似をして、「うみ」を「カイル・マレ」に書き換えた。たったそれだけのことなのに、板の中の他人が、急に人の形に戻った気がした。


    *


 三週間後の土曜日、僕は同じ改札の前に立っていた。


 あの朝、僕らは二人で、彼女が調べておいた聖堂の相談所の受付の時間を確かめ合った。それぞれ別の日に、それぞれの扉を叩いた。楽になったわけじゃない。今も、夜は長い。でも、長い夜のあとに、誰かとする約束があった。先週は、布団から起き上がれなくて、約束の時間に行けなかった。彼女は責めずに「じゃあ、来週」とだけ送ってきた。その一言に、僕は一日中、救われていた。


 来週、僕は商会の倉庫番の面接を受ける。受かるかどうかはわからない。彼女は来月から、しばらく仕事を休む手続きを取ると言っていた。どちらも、大きな一歩というより、小さな一歩だ。それでも、二人とも、その小さな一歩の話を、互いにできるようになった。


 改札の向こうから、黒い革の鞄を提げた人が歩いてくる。左手で、髪を耳の後ろにかける。


「お待たせ」 「いま来たとこ」 「うそ。三十分前からいたでしょ」 「……なんでわかるの」 「軽石、もう出てるもん」


 僕の外套のポケットから、白い軽石が半分はみ出していた。


 二人で、揚げ芋の店のある町行きの列車に乗った。


「ねえ、学院の同窓の集まりって、これから来ると思う?」 「来ても行かない」 「私も」 「でも、揚げ芋は食べに行く」 「それは行く」


 窓の外を、朝の光がゆっくり流れていく。海までは、四十分。

こめんとくれさい

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