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第8話 廃艦命令

 封書を読んだ。


 瑞穂皇国海軍中央司令部・北方辺境艦隊宛。発令番号と日付。本文は短かった。


 軽魔導巡艦「蒼嵐」を廃艦処分とする。理由:艦齢43年、累積修理費用が同型新造艦建造費を超過、継続運用による費用対効果の著しい低下。処分期日:本命令受領より30日以内。艦長は速やかに乗組員の転属手続きを行うこと。


 堂島は封書を机に置いた。


 川端が向かいに座っていた。封書を読んだ川端の顔と、今の川端の顔は変わっていなかった。


 「30日だ」と川端は言った。


 「修理に20日かかります」と堂島は言った。「残り10日で転属手続きをすれば間に合います」


 川端は答えなかった。窓の外を見た。港に停泊した蒼嵐が見えた。本修理の足場が艦体に組まれていた。


 「費用対効果」と川端は言った。独り言のように言った。「43年間浮き続けた艦の」


 堂島は答えなかった。


 「わかった」と川端は言った。「修理を続けろ」



 修理は予定通り進んでいた。


 右舷第1・第2区画の本溶接。左舷第3区画の鋼板交換。艦底の防水試験。大沼の班が手を止めずに動いていた。汐が資材を運んでいた。先週より動線がさらに短くなっていた。


 3日目の午後、見知らぬ男が港に来た。


 68歳ほど。背が低く、肩幅が広い。手が大きい。船大工の手だとわかる。工具袋を肩にかけて、蒼嵐の足場を下から見上げていた。


 「この艦に用がありますか?」と堂島は聞いた。


 男は蒼嵐を見たまま答えた。「診たい」


 「どなたですか?」


 「ハーゲン・ヴォルフ。船を診る者だ」


 訛りがあった。北方同盟の言葉の響きだ。



 ハーゲンは足場を上って艦体に触れた。


 工具は使わなかった。手のひらで鋼板を触った。30秒触って、次の場所に移った。拳で叩いた。音を聞いた。耳を鋼板に当てた。また叩いた。艦首から艦尾まで、1メートルずつ動いた。堂島は後ろからついていった。


 左舷第3区画の外壁でハーゲンが止まった。先週交換した鋼板の場所だ。


 「ここは新しい」とハーゲンは言った。触っただけで言った。


 「先週交換しました」


 「そうか」ハーゲンは新しい鋼板と古い鋼板の継ぎ目を指で辿った。「継ぎ目が硬い。溶接が丁寧だ。誰がやった」


 「大沼という班長です」


 ハーゲンは頷いた。継ぎ目から手を離して、また歩いた。


 艦首まで来たとき、ハーゲンは鋼板を拳で叩いた。堂島も知っている音が返ってきた。くぐもっているが芯がある音だ。


 「何年だ」とハーゲンは言った。「この艦は」


 「43年です」


 「43年か」ハーゲンはもう一度叩いた。同じ音が返ってきた。「疲れとる。疲れとるが」


 少し間を置いた。


 「骨格はまだ生きとる」


 堂島は艦首の鋼板を見た。配属初日に叩いた場所だった。


 「どこで判断してるのですか?」と堂島は聞いた。


 「音と、温度と、振動だ。エーテルは使わん。手だけで診る」ハーゲンは鋼板から手を離した。「お前も同じやり方をしとる。さっき見とった。新しい鋼板と古い継ぎ目を両方触っていた」


 「温度が違います」と堂島は言った。「新しい鋼板は少し冷たいので」


 「そうだ」とハーゲンは言った。初めて堂島を正面から見た。「わかるか」


 「慣れれば」


 ハーゲンは少し笑った。笑い方も船大工の笑い方だった。


 「廃艦命令が出たのか」とハーゲンは言った。


 「なぜわかりますか?」


 「この港で修理中の艦に、乗組員の顔がそういう顔をしとる」ハーゲンは足場を降り始めた。「命令に従うかどうかは艦長が決めることだ。俺は骨格を診ただけだ」



 堂島はハーゲンの言葉を川端に伝えた。


 川端は聞いていた。何も言わなかった。


 翌日、川端が堂島を呼んだ。


 「橘大佐に打電する」と川端は言った。「廃艦命令について確認が必要な事項があると」


 「どのような返答を期待していますか?」


 「期待はしていない。報告するだけだ」


 その日の夕方、橘大佐からの返電が来た。


 川端が受け取った。堂島に見せた。


 「好きにしろ」


 それだけだった。



 翌朝、川端が乗組員を甲板に集めた。


 全員が並んだ。大沼、汐、荒木、柴田、三島、朝霧、野口、その他の乗組員。全員が川端を見ていた。


 川端は封書を持っていた。廃艦命令の封書だ。


 「中央から廃艦命令が来ている」と川端は言った。「30日以内に処分せよという命令だ」


 誰も何も言わなかった。


 「私はこの命令を、受け取り忘れていた」


 川端は封書を上着の内ポケットに入れた。


 「修理が終わり次第、出港する。転属を希望する者は申し出てること。引き止めることはしない」


 誰も動かなかった。


 大沼が煙草の欠片を噛んだ。「修理の続きをしていいか」


 「どうぞ」と川端は言った。


 大沼が歩き始めた。汐がついていった。荒木が戻った。柴田が海図室に消えた。三島が機関室に降りた。朝霧が何も言わずに戻った。野口が「あ、私もいいですか」と言いながら戻った。


 甲板に残ったのは川端と堂島だった。


 「何をしている?」と川端は言った。


 堂島は蒼嵐の艦体を見た。足場に組まれた鋼材。修理中の区画。3日前にハーゲンが手を当てた艦首の鋼板。


 「修理を続けます」と堂島は言った。


 川端は頷いた。それだけだった。



 夜、堂島は艦内を歩いた。


 点検ではなかった。歩いていた。第1区画から第4区画まで、通路を歩いた。壁を手で触れながら歩いた。鋼材の感触。溶接の継ぎ目。補修した跡。自分が直した場所の一つひとつを手で確かめながら歩いた。


 この艦に来て何日経ったか、数えた。


 52日だった。


 52日で、この艦のどこから水が入り、どこへ逃がし、どこで止まるかを覚えた。どこの溶接が古く、どこの鋼板が薄く、どこの弁が渋いかを覚えた。頭の中の地図は最初の1枚から、今は何枚にも増えていた。


 手帳を出した。


 配属初日から書き続けた地図がある。浸水経路、弁の場所、溶接の古い継ぎ目、珊瑚礁の分布、エーテル回路の異常箇所。52日分の書き込みが積み上がっていた。


 最後のページを開いた。何も書いていないページだ。


 しばらく、そのページを見ていた。



 鋼花がいた。


 第2区画と第3区画の間の通路だった。白い服の輪郭は先週より定まっていた。灰色ではなく、白に近い。指の切り傷が残っていた。


 「命令を受け取り忘れたそうです」と堂島は言った。


 鋼花は堂島を見た。


 「……知っている」と鋼花は言った。「前にも、あった」


 「この艦で?」


 鋼花は答えなかった。通路の壁を見た。長い間見ていた。


 「沈まなかった」と鋼花は言った。「そのときも」


 堂島は壁に手を当てた。鋼材の感触。くぐもっているが芯がある。


 鋼花はそれを見ていた。それから消えた。


 堂島は手を当てたまま残った。



 修理が終わったのは18日目だった。予定より2日早かった。


 出港の朝、橘大佐が港に来た。


 何も言わなかった。蒼嵐を見た。川端を見た。堂島を見た。それだけで踵を返して帰った。


 堂島は橘の背中を見ていた。58歳の、口数が極端に少ない男の背中だった。補給要求を通してくれていたことを、堂島はまだ知らなかった。給与の手続きを裏で進めてくれていることも、まだ知らなかった。


 蒼嵐は港を出た。


 北の海が後ろに遠ざかった。南の水平線が前に広がった。マナリーフ海域まで3日の針路だ。


 堂島は手帳を開いた。最後の空白のページに、今日の日付を書いた。それだけ書いて、閉じた。

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