第5話 飛行艇の影
港への帰投中だった。
タウヒャー型の件を橘大佐に報告するため、グレイヘイブンに向かっていた。艦底の当板はまだ仮止めだ。本修理には港の設備が必要だった。海は穏やかで、速力は普通に出ていた。
「北東方向に飛行艇1機」と柴田の声が来た。「高度低め。偵察型です」
堂島は甲板に出た。空を見た。
いた。
翼幅の広い、低速の機体だ。こちらに向かってくるのではなく、並走している。距離を保ちながら、ついてくる。攻撃してこない。攻撃が目的ではない。
位置を報告している。
川端が艦橋に立っていた。
「振り切れますか?」と堂島は聞いた。
「速力で振り切るのは難しいです」と柴田が言った。「あの機体の巡航速度は蒼嵐の最大速力より速いんです」
「修理はどのくらい残っていますか?」と堂島は川端に聞いた。
「港に戻れば3日かかる」
「逃げながらできる修理があります」
川端が堂島を見た。
「当板の本固定は4時間でできます。排水経路の確認は並行してできます。ただし飛行艇をどこかで撒かないと、修理を終えても次の攻撃が来ます」
川端は海図を見た。柴田も海図を見た。2人とも同じ場所を見ていた。
「マナリーフ海域です」と柴田が言った。「ここに入れば、エーテル照準が乱れます。飛行艇も探知機器が使えなくなります。ただし」
「珊瑚礁に乗り上げます」と柴田は続けた。「この針路では」
「マナリーフまでの距離はどれくらいですか?」と堂島は言った。
「このままの速力で4時間です」
「修理に4時間かかります」
川端が堂島を見た。堂島も川端を見た。
「やれ」と川端は言った。
修理を始めた。
飛行艇が並走しながら見ている。攻撃してこないが、いる。その事実が乗組員の動きに微かな緊張を加えていた。堂島は気にしなかった。気にする時間があれば手を動かす方がいい。
艦底区画に入った。当板の仮止めボルトを外して、本固定用の溶接に切り替える。大沼の班が溶接機を運んできた。艦底区画での溶接は煙が出る。換気が悪い。目が痛くなる。
「換気扉を開けてください」と大沼に言った。
「海水が入る可能性がある」
「入ったら排水します。換気なしでは作業できません」
扉を開けた。潮風が入ってきた。溶接の火花が散った。
汐が溶接棒を補充しながら動いていた。先週より動線が短い。無駄な動きが減っている。
溶接を始めて30分で、通話管から柴田の声が来た。「飛行艇、高度を下げています。針路変更の可能性があります」
大沼が手を止めた。「攻撃してくるか?」
「わかりません」と堂島は言った。「続けてください」
手を止めた時間は取り戻せない。飛行艇が何をしようとしているかは、続けながら考える。
10分後、柴田から報告が来た。「飛行艇、高度を戻しました。引き続き並走しています」
大沼が溶接を再開した。火花が散った。煙が充満した。換気扉から潮風が入ってきた。
1時間半で溶接が終わった。
排水経路の確認に移った。当板の周囲、溶接継ぎ目の点検。ボルトの締め付け確認。排水弁の動作確認。1つずつ手で確かめながら進む。
「飛行艇、まだいます」と通話管から柴田の声が来た。「マナリーフまで2時間」
「修理、あと1時間です」と堂島は返した。
修理が終わったのは、マナリーフ海域の入口まで30分のところだった。
甲板に出ると、飛行艇がまだ並走していた。4時間、ずっとついてきていた。
「マナリーフに入る」と川端が言った。「全員、持ち場につけ」
柴田が針路を引いた。「珊瑚礁の分布図があります。ただし古い地図です。10年前のものです」
「10年で珊瑚は成長します」と堂島は言った。「どのくらい?」
「年に5センチから10センチ。10年で最大1メートルです」
「地図の水深から1メートル引いて計算してください」
柴田が鉛筆で数字を書き直した。「……通れる経路が3本から1本になります」
「その1本を行きます」
川端が頷いた。蒼嵐はマナリーフ海域に入った。
変化は緩やかに来た。
最初に気づいたのは羅針盤だった。針がわずかに揺れ始めた。揺れは小さかったが、止まらなかった。次にエーテル照準装置が誤差を出し始めた。荒木が砲術席で首を傾けた。
「照準が安定しません」と荒木が言った。「エーテルの干渉を受けています」
「撃つ必要はない」と川端が言った。「進め」
水の色が変わってきた。
青から緑がかった青に変わっていく。水深が浅くなっている証拠だ。柴田が水深計を見ながら舵手に細かく指示を出した。右2度、左1度、そのまま。堂島は艦首甲板に出て、水面を見ていた。水中に珊瑚の影が見えた。大きい。
「右に3度修正してください」と堂島は艦橋に向かって言った。
「根拠は?」と柴田の声が返ってきた。
「水面に珊瑚の影が見えます。地図より成長が速い場所があります」
「……確認します」と柴田は言った。水深計を見た。「右3度。堂島さんの言う通りです」
飛行艇が後ろで旋回していた。マナリーフ海域の縁で止まっていた。入ってこなかった。探知機器が使えない場所には入れない。
蒼嵐は珊瑚礁の間を進んだ。
海域の中心部に入ると、静かになった。
波が穏やかになった。珊瑚礁が外海の波を遮っているからだ。エーテル照準装置は完全に使い物にならなくなっていた。荒木が装置の電源を落とした。羅針盤の針が大きく揺れていた。柴田が地図と水深計だけで針路を取っていた。
「感覚で航行しています」と柴田が言った。「珊瑚礁の分布を頭に入れています」
「どこで覚えましたか?」と堂島は聞いた。
「この海域の哨戒を3年やっていました。この艦に来る前に」
堂島は水面を見た。珊瑚が水面近くまで来ている場所がある。触れれば座礁する。柴田が3年かけて覚えた地図が、今この艦を通している。
三島の声が通話管から来た。「機関、まだ生きてる。以上」
それだけだった。
霧が出てきた。
マナリーフ海域の中心部には霧が溜まりやすい。マナの影響で水温と気温の差が生じるからだと、後で柴田が説明した。視界が100メートルを切った。50メートルになった。
飛行艇の影は、とっくに消えていた。
蒼嵐は霧の中をゆっくりと進んだ。珊瑚礁の間を、柴田の記憶だけを頼りに進んだ。エーテルが使えない場所では、記憶と経験が道になる。
堂島はその航行を見ながら、手帳を出した。
珊瑚礁の分布を書いた。水深の変化を書いた。霧の出た位置を書いた。エーテル照準が乱れ始めた場所を書いた。柴田が修正を入れた針路を書いた。
書きながら気づいた。
この航行に兵器は1つも使っていない。エーテル砲も、魚雷も、何も。柴田の3年間の記憶だけで、蒼嵐はここを通っている。
「堂島さん」と汐が来た。「修理の確認、終わりました」
「どこかに問題がありましたか?」
「3番排水弁の動きが渋いです。港に戻ったら交換が必要です」
「報告書を書いてください」
汐は頷いた。それから少し間を置いた。
「3番排水弁、やはり交換が必要です」と汐は言った。「渋いだけでなく、弁座の摩耗が進んでいます。港に戻る前に動かなくなる可能性があります」
「応急処置はできますか?」
「グリスを詰めれば今夜はもちます。ただし明日には」
「やってください。報告書にも書いてください」
汐は頷いた。それから少し間を置いて、霧の中の珊瑚を見た。
「この海域を覚えておいてください」と堂島は言った。「また来ることもあるでしょう」
「手触りで覚えればいいですか?」と汐は言った。
堂島は汐を見た。
「穴の縁の形を手で覚えろと言ったので」と汐は続けた。「同じやり方で」
「そうしてください」と堂島は言った。
夜、艦がマナリーフ海域の反対側の出口に近づいたころ、鋼花がいた。
通路の角に立っていた。白い服の袖口に、細い引っかき傷があった。珊瑚の縁の形に似た傷だった。
堂島は立ち止まった。
「珊瑚に触れましたか?」と堂島は言った。
鋼花は袖口を見た。
「……ここは、久しぶりだ」と鋼花は言った。「この海域に来たのは」
「前に来たことがありますか?」
鋼花は答えなかった。窓の外の霧を見ていた。霧の向こうに珊瑚の影がある。鋼花の目がその影を追っていた。懐かしむような目だったが、堂島にはその感情の名前がわからなかった。
鋼花はしばらくそこにいて、それから消えた。
堂島は窓の外を見た。霧の中に珊瑚が浮かんでいた。蒼嵐がここを通ったことが、かつてあったのかもしれない。43年前、この艦が若かったころに。
霧の中の珊瑚を見ていた。
「出口まで1時間です」と柴田の声が通話管から来た。「針路、このままで問題ありません」
霧の向こうに、外海の暗い水面が見え始めていた。
艦橋に戻ると、荒木が待っていた。
「主砲エーテル回路に異常があります」と荒木は言った。「出力が不安定です。マナリーフの干渉が原因か、別の問題かまだわかりません」
堂島は手帳を開いた。書き込みを1行追加した。港に戻る前に、もう1つ仕事が増えた。




