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第2話 魚雷命中

 哨戒任務3日目の朝、霧が出た。


 北方辺境のこの海域では珍しくない。前方視界が200メートルを切ることもある。蒼嵐は速力を落として霧の中を進んでいた。艦橋では柴田航一航海士が海図を睨み、舵手に細かく指示を出していた。左に3度、また2度戻す。岩礁の位置を暗記している男の動きだった。


 堂島は艦首甲板にいた。


 手すりに両手をかけて海面を見ていた。霧の中では目より耳の方が使える。波の返り方で浅瀬の輪郭がわかる。32年間で染みついた感覚だ。何かを探しているわけではない。ただ立っていると体がそうする。


 「技術顧問」


 背後から声がかかった。振り返ると、水瀬汐が立っていた。16歳の見習いで、細い体をしている。今朝初めて言葉を交わした。


 「甲板に出ていていいんですか?」


 「規則では問題ありません」


 「霧の中は危ないですよ」


 「そうですか」と堂島は言って、海面に視線を戻した。


 汐はしばらくそこに立っていた。帰るでもなく、話しかけるでもなく。堂島が何をしているのか確かめようとしているらしかった。


 海面の色が変わった。


 一瞬だった。霧の向こう、左舷側の水面が白く盛り上がった。魚が跳ねる動きではない。何かが水中を高速で走ってきた跡だ。


 「伏せろ」と堂島は言った。


 声が出るより先に爆発が来た。



 音より先に衝撃が来た。


 甲板が跳ね上がり、堂島は手すりにしがみついた。汐が後ろに吹き飛ぶ音がした。左舷側から炎と黒煙が上がった。続いて音が来た。鼓膜を叩く低い爆発音。それから傾斜が始まった。


 左舷に傾いでいく。


 堂島は手すりを離して走った。艦橋に向かいながら頭の中で計算する。3日間の点検で描いた地図を広げる。爆発の位置は左舷中央。第3・第4区画だ。しかし今の爆発音は通常魚雷ではない。炸薬の燃焼音が違う。エーテル炸薬の音だ。


 魔導魚雷。


 海賊が持つ兵器ではない。


 艦橋に駆け上がると、川端稲穂が傾斜計を見ていた。針が22度を指している。柴田が声を上げた。


 「左舷第3・第4区画に浸水確認。炉心室への浸水経路、遮断できていません」


 「機関室は?」


 「浸水進行中。主機への影響は今のところなし」


 川端は傾斜計から目を離さなかった。22度。少しずつ増えている。


 上級士官の1人が進み出た。


 「艦長。復旧は不可能です。総員退艦を」


 川端は答えなかった。


 「艦長」


 「待ってください」


 割り込んだのは堂島だった。士官が振り向いた。川端も振り向いた。


 堂島は傾斜計を見た。22度。増加が止まっていない。手のひらを艦橋の壁に押し当てた。振動の周期を確かめる。艦がまだ抵抗している。傾きながらも、水平に戻ろうとする力が残っている。


 「メタセンタ高さがまだ正の値です」


 「何?」と士官が言った。


 「この艦はまだ自力で起き上がろうとしています。浸水を止めれば傾斜は戻ります」


 「第3・第4区画はすでに浸水が」


 「止めます」


 川端がこちらを見ていた。何も言わなかった。堂島も何も言わなかった。川端の目が動いた。傾斜計を見た。堂島の手を見た。また傾斜計を見た。


 「退艦命令を一時保留」


 士官が息を呑んだ。川端は繰り返さなかった。


 「堂島、やってみろ」



 堂島は艦橋を飛び出した。


 通路を走りながら頭の中で作業を並べる。第3区画の遮断弁を閉じる。第4区画の排水ポンプを最大出力にする。浸水点にパッチを当てる。3つ同時に動かす必要がある。


 大沼が通路の角に立っていた。すでに工具袋を持っていた。


 「第3区画の遮断弁を手動で閉ます。第4区画は排水ポンプを最大出力。パッチは私がやります」


 「人数は?」


 「大沼さんの班全員。あと1人、細い体が必要です」


 振り向くと、汐が後ろにいた。甲板から戻ってきたところだった。額に擦り傷がある。膝が小刻みに震えていた。


 「私が行きます」と汐は言った。


 「第3区画の補助弁は直径15センチの配管の中にあります。汐さんの体なら入れます」堂島は言った。「怖いですか?」


 「怖いです」


 「怖くて当然です。行けますか?」


 汐は答えなかった。唇を一度きつく結んだ。それから頷いた。膝の震えは止まっていなかった。



 第3区画に入ると、膝まで水があった。


 冷たい。足が動くたびに水音が立つ。懐中電灯の光が黒い水面に反射する。大沼の班員が3人、すでに主遮断弁の作業を始めていた。


 「回りますか?」


 「回りません」と班員が言った。「固着しています」


 「バールを使ってください。折るつもりで」


 堂島は奥へ進んだ。水位が上がっている。腰まで来た。冷たさが内臓に伝わってくる。壁を手で触りながら進む。音で浸水点を探す。水が壁を叩く音がする方向へ。


 あった。


 左舷壁の溶接継ぎ目が裂けている。幅40センチ、縦15センチ。そこから海水が噴き出している。パッチ材2枚。固定に4本のボルト。


 作業時間を計算した。パッチ2枚で6分。ボルト4本で3分。遮断弁が閉まれば流入が減る。9分。


 艦橋からの報告はまだない。炉心室への経路が開いたなら通報が来るはずだ。来ていない。まだ間に合う。


 「弁はどうだ?」と通話管に向かって叫んだ。


 「固着が取れん」と大沼の声が返ってきた。「もう少しかかる」


 9分が削られていく。


 堂島はパッチ材を水中で構えた。片手で壁を押さえ、片手でパッチを当てる。水の圧力が手を押してくる。体重で押し返す。しかし水位が上がっている。腹まで来た。体が浮く。浮くと押さえる力が半分になる。


 「汐さん」と堂島は言った。「補助弁の状態は?」


 しばらく返事がなかった。


 「汐さん」


 「……配管の中です」くぐもった声が返ってきた。「見えません、暗くて」


 「手で探してください。右側の壁に突起があるはずです」


 「……あります」


 「それを右に回してください」


 「回りません」


 「力が足りなければ背中を使ってください。体全体で押してください」


 金属がきしむ音が聞こえた。息が詰まる音が聞こえた。それから、何かが落ちる音がした。


 「汐さん?」


 返事がない。


 「汐さん、応答してください」


 「……落としました」と声が返ってきた。「工具を。拾えません、手が届かなくて」


 堂島はパッチから手を離しそうになった。離さなかった。パッチを離せば流入が戻る。


 「工具なしで回してください。手のひらで」


 「無理です」


 「できます。継ぎ目に手を引っかけて体重をかけてください」


 しばらく何も聞こえなかった。水の流入音だけが続いた。堂島はパッチを押さえたまま待った。腹の冷たさが胸に上がってきた。


 かちり、という音がした。


 水の流入音が小さくなった。


 「回りました」と汐の声が言った。息が上がっていた。


 「出てきてください」


 堂島はパッチをもう一度押し当てた。ボルトを打つ。1本、2本。水がまだ脇から噴いてくる。3本目、手が滑った。ボルトが水中に落ちた。


 残り1本分の時間しかない。


 予備のボルトを工具袋から出した。手が震えている。冷たさのためだ。年のためだ。52歳の手は、長く冷水に浸かると言うことを聞かなくなる。


 聞かせた。


 3本目を打った。4本目を打った。


 流入が止まった。



 「ポンプ、最大出力」と通話管に叫んだ。


 「出力最大」と三島重吉の声が返ってきた。機関室から出てこない男が通話管の前にいる。


 しばらく待った。


 傾斜が止まった。


 艦体の揺れの周期が変わった。傾いていく感覚がなくなった。少しずつ、水平に戻ろうとしている。



 艦橋に戻ると、傾斜計は15度を指していた。


 士官たちが黙っていた。川端が傾斜計を見ていた。針がまだ少しずつ戻っている。


 「炉心室への浸水は?」と川端が聞いた。


 「経路は閉じています。パッチは仮止めです。港に戻って本修理が必要です」


 川端は頷いた。それだけだった。


 堂島は艦橋の端に立って海図を見た。敵の艦はどこへ行ったか。霧の中で爆発と同時に逃げた。海賊旗を掲げていた。しかし魔導魚雷を使った。


 海賊は魔導魚雷を持てない。高すぎる。国家が供給しなければ手に入らない兵器だ。


 誰かが渡した。誰かが、この海域で蒼嵐を沈めたかった。


 「針路変更」と柴田の声が聞こえた。「港への最短経路を取ります」


 堂島は海図から目を離した。自分の手のひらを見た。ボルトを打ったときの傷が2本走っていた。冷水で白く膨らんでいる。


 大沼が隣に来た。


 「なぜ助かったかわからない、という顔をしているな、あいつら」


 士官たちのことだった。


 「わからなくていいです」と堂島は言った。


 大沼は煙草の欠片を噛んだ。「そういうもんか」


 「そういうものです」



 夜、堂島は再び第3区画に降りた。


 水は引いていた。懐中電灯で仮止めのパッチを確認した。ボルトの締め付けを確認した。継ぎ目の染み出しを確認した。問題ない。港までは保つ。


 鋼花がいた。


 区画の奥に立っていた。白い服の右袖が、肘から先まで濡れていた。第3区画の浸水水位と同じ高さだ。


 「助かりました」と堂島は言った。


 鋼花は答えなかった。しばらく堂島を見ていた。


 「……なぜ、止めようとした?」


 堂島は答えなかった。


 鋼花は何も言わなかった。


 堂島は仮止めのパッチをもう一度確認した。ボルトの頭を指で押した。緩みはない。


 港までは浮いていられる。


 それだけが今わかっていることだった。しかし、海賊旗の艦に魔導魚雷を渡した者がいる。港に戻れば終わりではない。次が来る。

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