第1話 蒼嵐、という艦がある
書類の最後の1枚に署名したとき、堂島鋼は自分の手を見た。
節くれだった指。甲の皮膚が厚く、右の人差し指の第二関節に古い火傷の跡がある。32年前、初めて損傷艦に乗り込んだ夜に蒸気管に触れた跡だ。熱さより先に音が来た。シューという高い音。それから痛みが来た。あの順番を今も正確に覚えている。
腕時計は23時17分。
引き継ぎ書類だった。応急工作の手順書、過去の損傷記録、判断の根拠の記し方。32年かけて積み上げたものを、誰かが読める形に直す作業。書いていると手が止まる場面があった。止まるたびに次の行を書いた。感傷を書く欄はどこにもなかった。
風が来た。
塩と金属の匂い。32年で鼻が忘れた匂いだ。しかし今夜は何かが混じっている。嗅いだことのない何かが、いつもの匂いの奥にある。
堂島は椅子を離れて埠頭の端まで歩いた。波音を確認する癖が抜けない。引退したら抜けるのかもしれない。あと3ヶ月ある。
海面が光った。
青白い光だった。波の形に関係なく、水の真下から滲み出るように広がった。堂島はしゃがんで目を細めた。眩しいというより、冷たい光だった。
書類を取りに戻ろうという考えが、頭をよぎった。
間に合わなかった。
体が冷たかった。
石畳の上に横になっていた。横須賀の埠頭はコンクリートだったから、石畳ではなかった。そこから考え始めた。立ち上がろうとすると膝が言うことを聞かなかった。一晩石の上で寝た体の重さだ。もう一度石畳に手をついた。手のひらに石の冷たさと、湿った苔の感触が伝わった。苔の匂いが鼻に来た。潮の匂いに混じって、腐葉土に近い何かがある。横須賀にはない匂いだ。
声がした。言葉は取れた。取れるのに、子音の立て方が違う。どこで覚えた言葉かわからないが、意味は来る。
「おい、誰かいるぞ」
「どこから来た?」
「わからん、倒れてた」
人の輪郭が3つ、視界に入ってきた。作業着の男たちがランタンを持っている。炎が揺れていた。電灯ではなく、炎だ。ガラスの形が今まで見たどのランタンとも違う。
堂島は立ち上がった。膝が鳴った。周囲を見た。石造りの防波堤。木造の桟橋。縄で結わえた木材の匂い。波に揺れる艦の影。空は黒く、星が多い。目が慣れると、知っている星座を探した。
なかった。
北極星がない。オリオン座がない。知っている星の並びが、1つもない。
「あんた、どこから来た?」
「わかりません」と堂島は答えた。嘘ではなかった。
男たちが顔を見合わせた。「まあいい、一晩くらい」と言って、港の隅の物置小屋を貸してくれた。毛布を1枚もらった。獣脂の匂いがする粗い織りの布だった。
堂島は毛布をかぶって横になり、天井の木目を数えながら夜明けを待った。
眠れなかった。怖かったからではない。頭が働き続けていたからだ。持ち物の確認。腕時計、財布、身分証。財布の紙幣はここでは使えない可能性が高い。身分証は意味をなさない可能性が高い。
帰る方法を考えた。
考えて、わからなかった。
わからないまま考え続けることに、堂島は慣れていなかった。だからそれ以上考えるのをやめた。朝になったら動く。動きながら考える。
ただ、天井の木目の節の数が17個あることだけ確認した。なぜ数えたのか、自分でもわからなかった。
橘一郎大佐に会ったのは翌朝だった。
憲兵に連行されながら、堂島は港の艦影を見ていた。旧式の艦が多い。手入れが行き届いているものと、そうでないものが混在している。石畳の上を歩くたびに右膝が軋んだ。一晩外で寝た52歳の体は正直だ。
司令室は質素だった。地図が壁を埋めていた。
地図の前に立っていた男は、堂島より10センチほど背が高く、白髪で、顔に深い皺が刻まれていた。両手が大きく、指の節が太く、甲の皮膚が厚い。デスクワークで作られる傷ではない手だった。
男は堂島を2秒見た。
「お前、どこから来た?」
「……横須賀です」
「横須賀? どの国の?」
堂島は答えなかった。この世界に「日本」が存在するかどうか、まだわからなかった。
「……わかりません」
男はしばらく堂島を見ていた。追及しなかった。
「専門は?」
「艦艇の応急工作です。浸水対応と損傷制御」
「証明は?」
「ありません」
「実績は?」
「あります」
「言え」
堂島は話した。数字で話した。角度、浸水量、時間、手順。3つの艦の話を。男は一度も手帳を取り出さなかった。ただ立ったまま聞いていた。
話し終えると、男は10秒ほど動かなかった。答えを決めたというより、確認が終わったという間合いだった。
「橘だ。技術顧問として仮登録する。仮登録期間中は給与の保証ができない。正式登録後に遡って支給する。問題が起きたら自分で解決しろ」
「わかりました」
「配属は蒼嵐にする」
橘はそれだけ言って地図に向き直った。面接は終わりだった。
扉に向かいながら堂島は「蒼嵐」という名前を頭の中で繰り返した。嵐の神の名だと、配属通知の紙の隅に書いてあった。
グレイヘイブン港の第7桟橋に、蒼嵐は繋留されていた。
港の一番端だった。補給艦が優先的に使う水路から外れた、邪魔にならない場所。
桟橋を歩きながら堂島は艦を見た。全長155メートル。船体のラインが今の艦とは違う。艦首の角度が急で、舷側の曲率が大きい。古い設計だ。舷側に補修の跡が何本も走っていて、塗装が何層にも重なり、下の層の色が所々で浮いてきている。
立ち止まって、舷側を拳で叩いた。
音が返ってきた。くぐもっているが、芯がある。腐食が進んだ艦は叩くと音が濁る。高音が消えて低い響きだけが残る。これは違う。もう一度叩いた。同じ音が返ってきた。
骨格はまだ生きている。
そう思ったとき、甲板の上に人影が見えた。
一瞬だけ。
白い服を着た、細い輪郭。桟橋から見上げると、甲板の縁に立って堂島を見下ろしていた。次の瞬間には消えていた。風に紛れるように、音もなく。
堂島は目を細めた。
「何してる」
背後から声がした。振り向くと、40代後半の男が立っていた。がっしりした体格、作業着に油染み、口の端に煙草の欠片を噛んでいる。吸っているのではなく、噛んでいる。
「船体の確認です」
男は堂島を見た。堂島の手を見た。それから艦を見た。
「大沼だ。応急工作班長をやっている」
「堂島です」
男はそれ以上何も言わなかった。煙草の欠片を噛んだまま、しばらく艦を見ていた。
「……どうせ沈む艦だ」
独り言のように言って、桟橋を歩き去った。
堂島は艦を見た。さっき人影が立っていた甲板の縁を見た。誰もいなかった。風が吹いて、艦体がわずかに軋んだ。低く、くぐもった音だった。
艦内に入ると、乗組員たちが堂島を見た。
歓迎でも警戒でもなく、ただ見た。そして見るのをやめた。
艦橋に上がると、艦長がいた。
川端稲穂少佐は窓の外の水平線を見ていた。長身で短髪、背筋が真っ直ぐで姿勢に無駄がない。
「技術顧問の堂島です」
川端は一度だけ堂島に視線を向けた。
「聞いている」
それだけ言って、水平線に視線を戻した。
堂島は艦橋を出た。廊下に出てから、川端がまだ水平線を見ていることに気づいた。振り返らなかったが、背中でわかった。何かを待っているような目だったと、後になって思い出す。
夜になった。
当直交代が終わって艦内が静まる時間がある。足音が遠くなり、機関室の低い振動と、波に揺れる艦体の軋みだけが残る。軋みは一定ではない。波の角度によって変わる。低い音と高い音が交互に来て、その間に細い金属音が混じる。
堂島は1人で艦内を歩いていた。
配属された日に艦の状態を自分の目と手で確認する。32年間の習慣だった。手のひらで壁を叩きながら歩く。音が変わる場所で止まる。指で継ぎ目を確認する。防水扉を押して抵抗を確かめる。応急資材庫の扉を開けてパッチ材の在庫を確認する。数が足りない。後で申請書を書く。
頭の中に艦の地図が少しずつ描かれていく。どこが弱いか。水が来たらどこから入るか。入った水をどこへ逃がすか。逃がした水が炉心室に回り込まないためにはどの弁を先に閉じるか。
第3区画から第4区画への連絡通路を歩いていたとき、暗がりに誰かが立っていた。
昼間、甲板で見た輪郭だった。
夜間照明の青白い光の中に、白い水兵服を着た少女が立っている。袖口に金糸の縁取り。古い様式の服で、現行の制服とは違う。青みがかった黒髪が肩の下まで垂れていて、全体がわずかに濡れているように見えた。顔に表情がない。体のあちこちに細かい傷がある。
堂島は立ち止まった。
「……何しに来た?」
声は低く、平坦だった。
「点検です」
「そういうことを聞いていない」
少女は堂島を見ていた。
「みんな、最初はそう言う」と少女は言った。「しばらくして、いなくなる」
「そうですか」
「だから言っておく。愛着を持つな。どうせ捨てていく」
堂島は少女を見た。白い服の右肩に、小さな擦り傷があった。舷側の補修跡と同じ位置だと気づくのは、ずっとあとのことだ。
「まだそこまで考えていません」
少女は何も言わなかった。
やがて、輪郭が薄くなった。フェードするのではなく、音が遠ざかるように消えた。最後に残ったのは、潮の匂いより少し冷たい空気だけだった。通路の温度が、確かに下がっていた。
堂島はしばらくそこに立っていた。
消えた場所の壁に手を当てた。鋼材の冷たさが伝わってくる。叩いてみた。
くぐもっているが、芯がある音が返ってきた。
昼間と同じ音だった。
堂島は点検の続きに戻った。頭の中の地図に、また1つ書き込みが増えた。この艦がどこから水を飲むか。飲んだ水をどこへ逃がすか。それだけを考えながら、暗い通路を歩き続けた。
少女は「いなくなる」と言った。
そうかもしれない。しかしそれは、まだ先の話だ。
点検を終えて資材庫に戻ると、大沼がいた。
工具の手入れをしていた。油を染みこませた布で、レンチの柄を丁寧に拭いている。堂島が入ってきても顔を上げなかった。
「1つ聞いていいですか」と堂島は言った。
大沼は手を止めなかった。「なんだ」
「この艦の主砲は何型ですか?」
今度は手が止まった。大沼が顔を上げて堂島を見た。
「……知らないのか」
「エーテル砲というものが存在することは知っています。型式は把握していません」
大沼はしばらく堂島を見ていた。それから立ち上がった。「来い」と言った。
前部砲室に入ると、エーテル砲Mk.IIが正面にあった。
砲身の直径は60センチほど。砲口の周囲に六角形の収束リングが3段重なっている。エーテルを圧縮して射出する構造だ。現代の兵器とは形が根本的に違う。
「これがMk.IIだ」と大沼は言った。「今の標準はMk.IIIだ。うちのは2世代古い」
「出力の差は?」
「3倍ある。向こうが1発撃てばこちらは3発撃たないと同じ効果が出ない」
「射程は?」
「Mk.IIで有効5000。Mk.IIIで8000。数字だけ覚えろ」
堂島は砲口の収束リングを指で触れた。金属の表面が微かに温かい。使用後の余熱がまだ残っている。
「この砲を撃った後、何分間は再発射できませんか?」
大沼が眉を動かした。「なぜそれを知っている?」
「推測です。砲口周辺に残渣が出るなら再発射に制約があるはずです」
「……14分だ」と大沼は言った。「撃った後、砲口周辺にエーテルの残渣雲が14分残る。その間に撃つと残渣と反応して自艦が爆発する。絶対の制約だ。例外はない」
「14分間、無防備になる」
「そういうことだ」
大沼は煙草の欠片を口の端に移した。「応急工作の人間がなぜ砲のことを聞く?」
「14分間に何が起きるかが私の仕事に直結するからです」
大沼は答えなかった。しばらく砲を見ていた。
魚雷発射管は艦首の左右に1基ずつあった。
「通常魚雷と魔導魚雷がある」と大沼は言った。「通常は火薬推進だ。命中しても即沈はしない。浸水が起きる。それが俺たちの仕事の発生源だ」
「魔導魚雷は?」
「エーテル炸薬を使う。通常の3倍から5倍の損傷が出る。高い」
「音が違いますか?」
「爆発音か?」大沼が堂島を見た。「……違う。エーテルが燃える音は炸薬とは周波数が違う。低くて長い。慣れれば聞き分けられる」
「慣れるまでどのくらいかかりますか?」
「1回食らえばわかる」
大沼はそれ以上説明しなかった。堂島はメモを取らなかった。頭に入れた。
爆雷の格納庫は艦尾にあった。
「これが一番厄介だ」と大沼は言った。木箱に収まった円筒形の爆雷を指差した。「水中で爆発する。艦底を直接叩く。上からの攻撃は装甲で防げるが、底からは防げない」
「修理が最も難しい浸水経路を生む」
「そうだ。艦底に穴が開いたら、潜らないと塞げない場合がある」
「潜れますか?」
「港に入っていればな。海上ではまず無理だ。だから爆雷を食らったら他の手を考える」
「他の手とは?」
大沼は少し間を置いた。「それはお前が考えることだ。俺たちが誰かに言われてやることじゃない」
堂島は頷いた。
「最後に1つ」と堂島は言った。「この艦の分類は軽魔導巡艦ですか?」
「そうだ。略して軽巡と呼ぶ。上は重巡、その上が戦艦だ。下は哨戒艦。うちは軽巡の中でも最古参だ。今の軽巡と戦えば、出力差で負ける」
「しかし骨格は生きている」
大沼が堂島を見た。「昼間も叩いていたな」
「音が良かったです」
大沼は何も言わなかった。煙草の欠片を噛んで、格納庫を出た。
堂島は爆雷の格納庫に1人残った。頭の中の地図に、また書き込みが増えた。この艦が何を持ち、何で沈み、何が14分間の急所になるか。
輪郭が見えてきた。
翌日の夕方、荒木誠砲術士が副砲の試射をした。通常火薬砲の音だった。配属された艦で初めて聞く炸薬の音だ。低く、腹に来る。エーテル炸薬とは燃焼の速度が違うと、大沼が言っていた。一度聞けば忘れない音を、一度聞いた。




