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『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』外伝:帳簿とパンと抜かぬ剣  作者: 早野 茂


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外伝第5話「王は剣を持たない」

王城の最奥、玉座の間。

国王は、一枚の巨大な絵画を見上げていた。


『帝国討伐戦勝記念図』。

黄金の鎧を纏った英雄ガランドが敵将を討ち取り、兵士たちが歓喜する姿が描かれている。

美しい絵だ。

だがそこには描かれていないものがある。

泥の臭い。

血の熱さ。

そしてその後に訪れた飢えの寒さ。


「……申し上げます、陛下」


老齢の侍従が羊皮紙の束を読み上げた。

民衆からの嘆願書だ。


「『英雄ガランド様を王都へ戻してください』。『財務官レオンの増税にはもう耐えられません』……」


読み上げられる言葉は、どれも切実だった。

民は知らない。

英雄が都にいない理由を。

財務官が嫌われ続ける理由を。


「陛下」


玉座の脇に控えていた貴族が低く囁いた。


「民の不満は限界です。ガランド将軍を一時的に都へ戻し、パレードを行いましょう。民は熱狂し、不満を忘れます。そして……その矛先として、財務官レオン・ハーゼンを更迭するのです」


王はゆっくりと視線を側近に向けた。


「……ならぬ」


声は静かだった。


「それは裏切りだ。余が最も忌むべき行為だ」

「し、しかし陛下!これは政治です。誰かが泥を被らねば……」

「泥を被っているのは誰だ。レオンだ。国境で寒風に晒されているのは誰だ。ガランドだ」


王は玉座の肘掛けを握りしめた。


「彼らは余との約束を守り続けている。もし余が保身のために彼らを売れば、この国の証文は紙になる」


側近が息を呑み、押し黙った。

国債も、外交も、平和も。

すべては「この国は約束を守る」という信頼の上にある。


重い扉が開き早馬の使者が転がり込んできた。


「陛下!北の国境より急報です!帝国の別動隊が、国境付近の村を襲撃する構えを見せています!」


緊張が走る。

側近が色めき立った。


「好機です!ガランド将軍に出撃命令を!彼が剣を抜けば、あんな小部隊など一撃で……」

「ならぬ」


王の一喝は、低く鋭かった。


「ガランドを動かすな。彼に剣を抜かせるな」

「な、なぜですか!民を守るためですぞ!」

「彼が剣を抜けば、帝国は『王国はやはり英雄頼みだ』と知るだろう。そして我々自身が、英雄がいなければ何もできない国に逆戻りしてしまう」


王は立ち上がった。

彼は剣を持っていない。

その代わりに机上の羽ペンを手に取った。


「戦うべきはガランドではない。余だ」


王は書類に向かった。

兵站を動かし、外交を使い、予算を組む。


『国境周辺村落への緊急支援物資・搬送命令書』

『帝国への、通商条約破棄をちらつかせた抗議文』


ペンが走る。

カリ、カリ、カリ……。

その音は地味で退屈だ。

だが王は書き続けた。

レオンが王都でそうしているように。

ガランドが国境で耐えているように。


「……発令せよ」


王は書き上げた書類に王印を押した。

重い音が広間に響き渡る。


夜が更けた。

執務を終えた王は、独り寝室の窓辺に立っていた。

眼下には王都の夜景が広がっている。

静かで慎ましい夜だ。


窓を開けると風が入ってきた。

どこかの酒場だろうか。

微かに人々が笑い合う声が聞こえる。

そして風に乗って硬貨が触れ合う音が聞こえた。


チャリン。


働き、稼ぎ、支払う音。

それだけだ。


「……守れたか」


王は独りごちた。

歓声はない。

賞賛もない。

民は明日も王への不満を口にするだろう。

それでも彼らは明日を生きる。


王は窓を閉めた。

王は剣を持たない。

その夜、署名はなされた。


(了)


最後までお読みいただきありがとうございました。銅貨が重なる「チャリン」という音に、この世界の平和を込めました。

レオンとガランドの物語をより深く知りたい方は、ぜひ本編もご覧ください。

『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』~戦時編~(1作目)

(いかにして敵軍は物理的に「自滅」したのか?戦場での兵站術を描く完結作)

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『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』~戦後編~(2作目)

(「剣でパンは焼けない」。財政破綻した王国を、信用という名の武器で立て直す本格戦後記)

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