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『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』外伝:帳簿とパンと抜かぬ剣  作者: 早野 茂


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外伝第4話「白パン三枚の日々」

王都の大通りに朝の鐘が鳴る。

パン屋の親方は、まだ薄暗い店先で黒板にチョークを走らせていた。


カツ、カツ。


その指先はわずかに震えていた。

かつてこの黒板の数字を書き換えるたびに、客の顔から血の気が引いていくのを親方は見てきた。

「五十枚」「百枚」――それは地獄への宣告だった。


親方は深呼吸をして、白い粉のついた指でその数字を書き上げた。


『白パン一つ銅貨三枚』


二枚ではない。

あの戦勝の翌朝には戻らなかった。

だが誰もが手を伸ばせる値段だ。

親方は黒板を店先に掲げ白い息を吐いた。


「おじちゃん、パンちょうだい」


開店と同時に近所の木工職人の息子が現れた。

子供はカウンターに爪先立ちになり握りしめた小銭を広げた。


「いーち、にー……あれ?」


一枚足りない。

子供の顔が曇る。

親方は黙ってカウンターの隅を指差した。

落とした銅貨が転がっていた。


「ほら、あったぞ。ちゃんと数えな」

「あ、あった!はい、三枚!」


子供は笑ってパンを受け取り湯気を立たせながら駆け出していく。

親方はその背中を見送り銅貨をレジに入れた。


チャリン。

その音が五年ぶりに軽かった。


昼時店は賑わっていた。

その列に右の袖口がぶらりと揺れる、片腕の元兵士が並んでいた。

彼は無精髭を蓄えた顔で黙って銅貨三枚を置きパンを一つ買った。

ベンチに座りパンを半分に割ると、半分だけを食べて残りを懐にしまった。


「……またかい。全部食えばいいのに」


親方が声をかけると、男は「夕飯の分だ」とだけ言って、寂しげに笑った。

そこへ、大きな荷物を背負った行商人が入ってきた。


「へい、親方!景気はどうだい!」


旅の商人は大声で噂話を始めた。

国境の英雄ガランドの威光とそれに比べて王都で増税を強いる「吸血鬼」への不満。


「あの役人が消えれば、もっと暮らしが楽になるのによお」「……」


親方は黙って生地を捏ね続けた。

誰が正義で誰が悪党か、そんなことは分からない。

ただ、小麦は届き、かまどの火は消えていない。


「おい、親方もそう思うだろ?」

「知らねえよ」


親方はのし棒をバンと叩きつけた。

「誰が国を回してようが、粉が届いて客が腹いっぱいになればそれでいいんだ」


その時外の市場から怒鳴り声が聞こえた。

リンゴを抱えた痩せた男が取り押さえられ、周囲の男たちが拳を振り上げている。


「ふざけやがって!皆苦しい中でやってんだ!」

「半殺しにしてやれ!」


誰もが心に余裕があるわけではない。

暴力の気配が膨れ上がるなか、割って入ったのはあの片腕の元兵士だった。

彼は殴りかかろうとする男の腕を残った左手一本で制した。


「やめろ」

「なんだテメェ!離せ!こいつは盗人だぞ!」


男たちが殺気立つ。

だが元兵士は剣を持っていない腰を落とし、静かに言った。


「ここで暴れれば、店が閉まる」

「あ?」

「店が壊れれば、明日の市が立たなくなる。……そうなれば、パンの値段が上がるぞ」


男たちの動きが止まった。

五年前の光景が男たちの目にちらついた。

男たちはバツが悪そうに散らばり始め、泥棒は元兵士に低頭して雑踏へ消えた。


一部始終を見ていた子供が親方のエプロンを引っ張った。


「ねえ、おじちゃん。あの人、パン守ったんだね」

「……ああ」


親方は子供の頭をくしゃくしゃに撫でた。

「ああいう奴がいると、店は続くんだろうな」


夜、店仕舞いの時間。

かまどの火を落としていると、あの元兵士が扉を叩いた。


「すまない。もう閉店か?」

「いや、いいよ。入りな」


親方は売れ残ったパンを差し出したが、元兵士は首を横に振った。

彼は懐から手垢のついた銅貨を三枚取り出した。


「タダで貰っちまったら俺は客じゃなくなる。……俺はこの国の『客』でいたいんだよ」


元兵士は、はにかむように笑った。


「割り勘みたいなもんだ。あんたはパンを焼き、俺は金を払う」


親方は吹き出した。

「……へっ、違いねえ。堅苦しい客だこと」


親方は銅貨を受け取りレジに入れた。

チャリン。


「まいどあり。また明日も焼いて待ってるよ」

「ああ。また来る」


元兵士は温かいパンを懐に入れ、夜の街へと消えていった。


親方はかまどの残り火を見つめた。

小さな炎が、静かに揺れている。


白パン一つ、銅貨三枚。

それだけで、明日は来る。


(了)


最後までお読みいただきありがとうございました。銅貨が重なる「チャリン」という音に、この世界の平和を込めました。

レオンとガランドの物語をより深く知りたい方は、ぜひ本編もご覧ください。

『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』~戦時編~(1作目)

(いかにして敵軍は物理的に「自滅」したのか?戦場での兵站術を描く完結作)

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『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』~戦後編~(2作目)

(「剣でパンは焼けない」。財政破綻した王国を、信用という名の武器で立て直す本格戦後記)

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