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『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』外伝:帳簿とパンと抜かぬ剣  作者: 早野 茂


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3/5

外伝第3話「帳簿の端で国は息をする」

王国財務府、特別監査室。

かつて“吸血鬼”が座っていた部屋は、主が去った今も静まり返っている。


窓はない。

あるのは天井まで届く書類棚とインクと古紙の乾いた匂いだけ。

新人官僚エルウィンは、山積みになった帳簿の塔に埋もれながら深いため息をついた。


「……合いません。また計算が合いません」


エルウィンは入省二年目。

五年前、崩壊寸前の国家を剣ではなく計算だけで救ってみせたあの男に憧れ、この道を選んだ青年だ。


「おいエルウィン、まだ終わらんのか」


向かいの席で足を組んでいるのは、直属の上司であるガルス課長だ。


「市民からの苦情処理なんて、適当に流しておけ。どうせ『パンが高い』だのいつもの愚痴だろ」

「ですが課長。第四街区の小麦価格が、昨日より銅貨二枚上がっています。東部街道の『第三橋』の補修遅延が原因です。今すぐ軍の予備輸送隊を回すべきです」

「馬鹿を言うな」


ガルス課長は冷淡に鼻を鳴らした。


「軍を動かせば書類申請だけで数日かかる。お前はレオン・ハーゼンの真似をしているつもりかもしれんが、あいつは『劇薬』だったんだ。平時には不要なんだよ。大人しく座っていろ」


課長は書類に判を押し、目を閉じてしまった。

エルウィンは唇を噛んだ。

悔しさで指が震える。

だがその数字の向こうに生活がある。


エルウィンは椅子を蹴るように立ち上がった。

向かう先は書類の上ではない。

問題が起きている現場――第四街区の市場だ。


市場は殺気立っていた。

小麦の到着が遅れパン屋の店先には「売り切れ」の札が出ている。

主婦たちが店主に詰め寄り怒号が飛び交っていた。


「どうなってるのよ!子供がお腹を空かせてるの!」

「すまねえ粉が届かねえんだ!」


官僚の制服を見た瞬間、罵声の礫が飛んでくる。

エルウィンは足がすくみそうになった。

レオンは毎日この恐怖と戦っていたのか。


「ま、待ってください!事情を説明します!」

「御託はいいんだよ!」


パン屋の女将がのし棒を突きつけて怒鳴った。


「橋がどうとか、あたしらには関係ない!あんたが正しい理屈を並べたところで、パンは焼けねえんだよ!正しいだけじゃ、店は守れないんだ!」


その言葉はエルウィンの胸に深く刺さった。

正論も手続きも空腹の前では紙屑同然だ。

エルウィンは懐から自分の一ヶ月分の給料が入った革袋を取り出した。

そして中身の銅貨を一枚取り出しカウンターに叩きつけた。


バチンッ!


「……これが、一枚」


エルウィンは震える声でしかしはっきりと言った。


「銅貨一枚。たったこれだけの重さです。でも、これが値上がりすることで、あなたたちのスープが一皿分薄くなることを、僕は知っています。……今日から僕の昼飯が、少し薄くなるだけのことです」


彼は顔を上げ女将の目を見つめた。


「僕は、この一枚を守るために官僚になりました。……それが、国の敗北を防ぐ唯一の戦線だからです」


エルウィンは革袋を抱え直し踵を返した。

向かうのは近くにある民間輸送ギルドの支店だ。


(正式手続きでは間に合わない。なら、僕の責任で、僕の金でやる。公金は一銅も使わない。後で全部、監査に報告するだけだ)


それは組織の規律を乱す危うい賭けだった。

だが、彼は走り出した。


その日の夕暮れ。

第四街区に馬車の車輪音が響き渡った。

エルウィンが自腹で手配した民間輸送隊が、通行税を払い、泥を跳ね上げ、予定時間を大幅に過ぎて到着した。

泡を吹いて倒れた馬の横で小麦の袋は確かに積み下ろされた。


市場に歓声が上がる。

パン屋の棚に再び焼きたてのパンが並ぶ。

黒板の値札が書き換えられる。

『銅貨五枚』から元の『三枚』へ。


翌日。

財務府の執務室でエルウィンはガルス課長から雷を落とされていた。


「貴様!独断で民間業者を使うなど前例がない!責任とは“死者”への責任だ。もし街道で敵の別動隊に襲われていたら誰が責任を取るつもりだったんだ!お前が守った“二枚”のために命を落とす者が出たらどうする!」


課長の言葉には守旧派なりの重い正しさがあった。

エルウィンは直立不動で頭を下げていた。


「……申し訳ありませんでした。不測の事態への備えが欠けていました。ですが昨日あの市場で飢えが起きていれば、それもまた“死”です」


課長は忌々しげに顔を背けエルウィンの始末書に判を突いた。

給料は削られるだろう。

出世も遠のいた。

だが、不思議と後悔はなかった。


帰り道。

エルウィンは例のパン屋の前を通った。

店は繁盛している。

女将は忙しそうに客を捌きエルウィンの方を見ようともしない。

だが彼が通り過ぎようとした瞬間、女将は無造作に「売り切れ」の札をひっくり返し、黒板の「銅貨三枚」の文字を、力強く粉を払って指でなぞった。


感謝の言葉などない。

英雄のような賞賛もない。

だが、客が支払う銅貨の音が夕暮れの街に響いていた。


チャリン。


エルウィンは、眼鏡を直した。

(……次は、もっと上手くやる)


(了)


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