外伝第2話「辺境に剣は抜かれない」
北の国境、嘆きの谷。
鉄と霧の匂いがする。
断崖にへばりつくように建設された『北壁砦』は、一年中湿った冷気に包まれている。
早朝。
見張り塔の鐘がカランカランと乾いた音を立てた。
敵襲ではない。
朝の交代の合図だ。
砦の練兵場では若き兵士たちが木剣を振るい、気合いの声を上げている。
その様子を腕を組んで静かに見下ろす男がいた。
辺境守備隊総監、ガランド。
かつて単身で敵陣を突破した伝説の英雄も、今は黄金の鎧を脱ぎ無精髭を蓄えたただの巨漢である。
「……総監。よろしいのですか」
背後から不満げな声がかかる。
今年配属されたばかりの若い副官だ。
「兵たちの士気が上がりません。皆、あなたの『本物の剣技』を見たがっています。一度でいい、手本を……」
「断る」
ガランドは視線も動かさずに答えた。
「俺が剣を抜けば、それは演舞じゃ済まない。空気が変わる。……国境の空気はな、敏感なんだよ。俺が殺気を漏らせば、谷の向こうまでピリつき始める」
「そんな、まさか……」
「お前には聞こえないか?谷底の風に乗って、奴らの『息』が聞こえるのが」
ガランドは鼻を鳴らした。
副官には風の音しか聞こえない。
その時砦の門が開き、泥だらけの斥候が駆け込んできた。
数枚の羊皮紙がガランドに差し出される。
そこには無機質な数字が並んでいた。
『第七宿場町・廃棄された蹄鉄の摩耗度:深』
『荷馬車の車輪痕幅:通常より二寸深い』
副官が首を傾げる。
「なんだこれは?敵の数が書いてないじゃないか」
「数は嘘をつくが、ゴミは嘘をつかない」
ガランドは羊皮紙を睨みつけ脳内で戦場を構築していく。
重装備の騎兵が長距離を移動し武器か食料を積んだ重い荷馬車が動いている証拠だ。
「……来てるな。赤い旗印の重装騎兵だろう。補給部隊もついている。おそらく、五十キロ地点の森のあたりだ」
「なっ!?なぜそこまで分かるのです!」
「奴らの『腹の音』がするからだ」
ガランドは戦術図を広げ指で太い線を引いた。
かつての彼なら「俺が出る」で終わっていただろう。
だが今の彼は違う。
王都にいる“あの男”の嫌味な眼鏡が脳裏をよぎる。
「副官。第一部隊を右翼の丘へ出せ。ただし、武器は構えさせるな。ただ『焚き火』をさせろ」
「は?焚き火、ですか?」
「ああ。煙を高く上げろ。こちらの位置を教えてやるんだ。そして補給部隊は逆に森の奥へ隠せ。奴らに『こちらの兵站』を読ませるなよ」
命令は奇妙だった。
まるで、見えない相手と無言の会話をしているようだ。
数時間後予感は的中した。
谷の向こう、霧の中に赤い甲冑を纏った騎兵たちの影が揺らめく。
あからさまな挑発行動。
こちらを誘い出そうとしている。
「総監!舐められています!討って出ましょう!」
副官が叫ぶが、ガランドは動かなかった。
「待て。奴らの狙いは、俺たちが『飢えているか』を見ることだ。ここで飛び出せば、『余裕がない』と認めるようなもんだ」
ガランドは兵站士官を呼び、命じた。
「今日の昼食用のパンを、全て門の前に並べろ。一番白くて、ふかふかのやつをな。ついでに、ワイン樽も二つほど転がしておけ」
十分後。
門が開け放たれ、敵から丸見えの位置に焼きたての白パンが山のように積まれた。
香ばしい匂いが風に乗って谷へと流れていく。
それは無言のメッセージだった。
「……引いていくぞ」
赤い騎兵たちはしばらくパンの山を睨んでいたが、やがてゆっくりと馬首を返し、霧の向こうへと消えていった。
彼らもまた、補給の裏付けがない戦いの脆さを知っている。
「か、勝った……のか?」
副官が呆然と呟く。
「勝ってなどいない。……今日は『負けなかった』だけだ」
ガランドは外套を翻し、砦の中へと戻っていく。
「片付けろ。あのパンは今日の晩飯だ。砂を払って食え」
「えっ、晩飯もこれだけですか……?」
背後で兵士がぼやく声が聞こえた。
ガランドは胸の奥で、小さく笑った。
夜。
執務室を訪れた副官は昼間とは違う、迷いのある表情をしていた。
「総監。……私は、あなたのことを誤解していました」
副官は言葉を詰らぜ頭を下げた。
「私にはまだ完全には分かりませんが……。あのパンは、剣よりも鋭い一撃でした」
ガランドは苦笑し鎧の隙間から覗く古傷を無造作に掻いた。
「買い被るな。……俺はただの臆病者になっただけだ」
かつての俺なら喜んで飛び出していただろう。
だが今は知っている。
俺が剣を抜けば王都で必死に帳簿を叩いているあの男の努力が無駄になることを。
「剣は、抜けば刃こぼれする。……抜かずに済むなら、それが一番切れ味が鋭いんだよ」
カランカラン……。
見張り塔の鐘が鳴った。
敵襲ではない。
ただの夜の交代を告げる音だ。
ガランドは窓の外、闇に沈む国境を見つめた。
そこには今日も、死体は転がっていない。
それで十分だった。
(了)




