外伝第1話「割り勘の夜」
王都の夜は雨に沈んでいた。
石畳を叩く冷たい雨音が昼間の喧騒を洗い流していく。
かつての凱旋パレードの熱狂も今は遠い過去の幻聴のようだ。
濡れた路地の水たまりにガス灯の頼りない光が揺れている。
レオン・ハーゼンは外套の襟を立てて歩いていた。
顔を隠すためではない。
いや、半分はそうかもしれない。
今の彼を「救国の財務官」と呼ぶ者は稀で大半は「血も涙もない吸血鬼」と呼ぶからだ。
石を投げられないためには目立たないに越したことはない。
彼が足を止めたのは大通りから二本ほど外れた路地裏にある古びた赤煉瓦の店だった。
看板には『踊る雄鶏亭』とあるが塗装が剥げて『踊る鶏』としか読めない。
重い樫の扉を押し開けると湿った空気と共に煮込み料理の濃密な香りが鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい。……おや、また来たのかい」
カウンターの奥で恰幅のいい女将が布巾を絞りながら声をかけてきた。
客はまばらだ。
隅の席で老人が二人、安酒を舐めるように飲んでいるだけ。
レオンは目立たない奥のテーブル席を選んで腰を下ろした。
「いつものエールと、煮込みを。パンも付けてください」
「はいよ。……そういえば旦那、聞いたかい?市場の小麦、また少し安くなったんだよ」
女将は嬉しそうにカウンターの黒板を指差した。
そこにはチョークで『本日の白パン・銅貨三枚』と書かれている。
「三枚、ですか」
「ああ。戦争が終わった直後の『二枚』にはまだ届かないけどね。でも、一時期の『五十枚』なんて地獄に比べりゃ、天国みたいなもんさ。ようやく安心して粉が仕入れられるよ」
女将の口調には安堵の実感が滲んでいた。
銅貨三枚。
それは決して安くはない。
だが毎日働けば確実に腹を満たせる価格だ。
レオンは小さく息を吐いた。
その「一枚」を下げるために、どれだけの帳簿と格闘し、どれだけの罵声を浴びてきたか。
女将は知るよしもない。
それでいい、とレオンは思う。
政治の苦労など食卓の話題には不向きだ。
「……待たせたな」
不意に背後から低い声がした。
扉が開く音に気づかなかった。
それほど自然に気配を消してその男は現れた。
濡れた外套を纏った巨漢。
フードを目深に被っているが、その岩のような体躯は見紛うはずもない。
ガランド。
かつての王国の剣。
今は辺境守備隊総監——都の外に置かれた英雄。
「お久しぶりです、英雄殿」
「よせ。今の俺はただの田舎の守備隊長だ」
ガランドは苦笑しながらレオンの向かいにドカッと腰を下ろした。
椅子が悲鳴を上げる。
彼は外套を脱ぎ無造作に隣の席へ置いた。
その下に着ているのは豪奢な黄金の鎧ではない。
使い古された革の胸当てと厚手の亜麻服だ。
だがその身から放たれる圧倒的な「質量」だけは何も変わっていなかった。
「エールを二つ追加だ。あと、肉をくれ。一番でかいやつを」
「あいよ!お客さん、いい体してるねえ。元兵隊さんかい?」
女将がジョッキを運びながら尋ねる。
ガランドは短く「まあな」とだけ答えて、ジョッキを煽った。
「……辺境は、どうですか」
レオンが水を向ける。
ガランドは口元の泡を手の甲で拭い、ふう、と息をついた。
「静かなもんだ。剣なんざ、薪を割る時くらいしか抜いてねえよ」
「平和で何よりです」
「平和、か。……まあ、そう見えるなら、俺の仕事は成功してるってことだな」
ガランドの瞳が一瞬だけ鋭く細められた。
「隣の帝国も、南の通商連合も、じっとこっちを見てやがる。奴らは迷ってる。俺が生きてるのか、ただの置物かとな」
「手を出してきそうですか?」
「いや。今のところは『様子見』だ。俺がそこに『いる』だけで、奴らは動けない。下手に動いて、もし俺が生きてたら、軍団一つが消し飛ぶと知ってるからな」
「……生きた抑止力、ですね」
「ああ。だから俺は、毎日退屈そうにあくびをして、茶を啜ってる。それが一番の『武装』だ。……剣は抜かないが、枕を高くして眠れる夜はねえよ」
英雄は自嘲気味に笑った。
「抜かない剣」として存在そのものを重圧に変え、敵国を心理的に縛り続ける。
それは血の沸くような高揚感とは無縁の神経をすり減らす静寂の戦いだ。
レオンは目の前の男が刻んだ皺の深さを改めて見た。
都を追われたあの日より、彼は遥かに「軍人」としての凄みを増していた。
「あなたのおかげで、私は安心して国内の膿を出せます」
「そっちこそどうなんだ、吸血鬼殿。……相変わらず、嫌われてるようだが」
ガランドがレオンの痩せた頬を指差す。
レオンは肩をすくめた。
「嫌われるのが仕事ですから。……女将さん、ツケで飲んでる客はいますか?」
レオンが不意に話題を変え、通りがかった女将に尋ねた。
女将は眉をひそめて首を振った。
「ツケ?とんでもない。うちは現金払いだけだよ。信用できない奴に飲み食いさせたら、店が潰れちまう」
「そうですよね。……ツケというのは店と客との『約束』だ。客が必ず払うと信じられるから店は酒を出す。もし客が払わなければ、店は仕入れができなくなり、かまどの火が消える」
レオンは自分のジョッキを見つめながら、静かに続けた。
「国家も同じです、英雄殿。すべては『この国は約束を守る』という信用だけで成り立っている。……あなたが国境で『武力の約束』を守っているように、私はここで『数字の約束』を守っている。それだけです」
女将は不思議そうな顔でレオンを見たが、やがて「まあ、金さえ払ってくれれば何でもいいさ」と笑って厨房へ戻っていった。
ガランドは、黙って煮込み料理を口に運んだ。
国境と帳簿。
場所は違えど二人は同じ重さを背負っている。
雨音だけが二人の間の沈黙を埋めていた。
――その静寂が、無遠慮な怒号によって破られた。
「おい!酒だ!もっと持ってこい!」
入り口近くの席で若い男がテーブルを叩いていた。
身なりは貧しい。
爪の間には油が染み込み、日焼けした肌は労働者のそれだ。
「ちくしょう……どいつもこいつ、税金、税金ってうるせえんだよ!俺たちが汗水垂らして働いた金が、全部持っていかれちまう!」
若者は虚空に向かって叫んだ。
店内の空気が凍りつく。
ふと、その焦点の定まらない視線が奥の席に座るガランドに向いた。
「おい、あんた!その体、軍人崩れか?あんたらが戦争なんて始めなきゃ、俺たちはこんなに苦しまなくて済んだんだ!三日働いて、やっと小麦粉一袋だぞ!」
若者はそこで言葉を切り震える拳でテーブルを叩いた。
「……家じゃ、妹が腹を空かせて泣いてるんだよ」
吐き出された声は怒りよりも悲しみに濡れていた。
若者がガランドの胸倉を掴もうと手を伸ばす。
だがその手はガランドの胸板に触れる直前で、ピタリと止まった。
阻んだのは物理的な壁ではない。
若者自身の生存本能だ。
「……小僧。手を引け」
ガランドの声は低く地を這うような響きがあった。
『これ以上近づけば死ぬ』。
歴戦の兵士だけが纏う本物の死の匂いに若者の顔が青ざめる。
ガランドの目がすっと細められた。
戦士としての矜持が怒りとなって噴き出しそうになった、その時だ。
ガタリ、と椅子が鳴った。
レオンが立ち上がっていた。
「申し訳ありません」
レオンは若者に向かって深々と頭を下げた。
「な、なんだよ、あんた……」
「連れが失礼しました。……ですが、あなたの言う通りです」
レオンは頭を下げたまま、静かに、しかしよく通る声で言った。
その指先がわずかに震えていた。
ガランドはそれを見つめ、何も言わずにジョッキを握り直した。
「この国の軍隊は、まだあなた方を十分に守れていない。腹一杯食べさせることもできていない。……あなたの税金は、確かにこの男の腹に入っています。ですがそれはまだ、あなたの生活を楽にするという『結果』になって返せていない」
レオンは顔を上げ、若者の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には侮蔑も憐憫もない。
ただ凍えるような事実を受け入れる覚悟だけがあった。
「……承知しています。我々はあなたに食わせてもらっている。その事実に対して成果が足りない。……謝罪します。申し訳ありませんでした」
若者は毒気を抜かれたように口を開けた。
目の前の痩せた男が纏う、すべての責任を背負う者だけが持つ重圧に圧倒されたのだ。
「……けっ、白けちまった」
若者はバツが悪そうに吐き捨てると、逃げるように店を出て行った。
再び静寂が戻る。
「……おい、レオン」
ガランドの声には、納得できない響きがあった。
「なぜお前が頭を下げる?今の小僧はただの理不尽な言いがかりだぞ」
レオンは席に戻った。
一度、唾を飲み込む。
喉が小さく鳴った。
それから冷めかけたエールを一口飲んだ。
「理不尽ではありませんよ。……事実です。剣は、国を守ります。ですが、『支払い』は守れません」
「支払い?」
「軍を維持するコスト。今日の煮込みの代金。それらは剣では払えない。……あなたが国境で敵を睨んでいる間、その食事は、さっきの若者のような民衆が負担している。彼らが『割に合わない』と感じて怒るのは、出資者として当然の権利です」
ガランドは言葉を失った。
「だから、私が頭を下げました。剣で払えないツケは、私が払う。頭を下げるのも、泥を被るのも、帳簿を合わせるための『経費』です。……あなたは胸を張っていてください。そのための汚れ役は、私の領分ですから」
ガランドは、しばらくじっとレオンの顔を見ていた。
やがて大きなため息をつき、残りのエールを一気に飲み干した。
「……勝てねえな、お前には」
「勝ち負けではありませんよ」
「いいや、負けだ。俺は剣があれば何でも守れると思っていた。だが、俺自身の飯代すら、誰かに頭を下げてもらわなきゃ払えなかったとはな。……それを戦場では教わらなかった」
ガランドは自嘲したが、その表情はどこか晴れやかだった。
「女将!会計だ!」
ガランドが懐から革袋を取り出した。
「今日は俺が払う。頭を下げさせた詫びだ」
だがその太い腕をレオンの細い手が制した。
「いけません、英雄殿。あなたに奢らせたら、民政が軍に借りを作ることになる。借りを作れば、いつか言いたいことが言えなくなります」
「お前な……こんな安酒場で何を」
「私たちは対等でなければならない。互いに依存せず、ただ背中を預け合う関係でなければ、この国は支えきれません」
レオンは自分の分の銅貨を、きっちりと数えてテーブルに置いた。
ガランドもまた自分の分の銅貨を並べた。
「奢ったり奢られたりじゃ、いつか無理がくる。割り勘が一番うまいんだよ。腹も心もね」
女将が笑いながら、二人の金を受け取った。
チャリン。
二人の銅貨が重なり硬質で涼やかな音が響いた。
それは、今日一日を生き延び明日もまた生きていくための等身大の生活の音だった。
店を出ると雨は上がっていた。
雲の切れ間から月が覗き、濡れた石畳を青白く照らしている。
「……じゃあな、レオン。次は王都か、国境か」
「さて。どちらにせよ、帳簿が合う場所で会いましょう」
二人は握手もしなかった。
ガランドは外套を翻し北の国境へ。
レオンは鞄を抱え直し財務府へと続く路地裏へ。
歩き出して数歩、レオンはふと足を止め一度だけ振り返った。
消えかけた酒場の灯りを見つめる。
それから鞄の取っ手を指先が白くなるほど強く握り直すと、二度と振り返らずに闇の中へと消えていった。
重なったあの銅貨の音はもはや聞こえない。
だがその余韻は確かに、この国の呼吸だった。
(了)




