◇◆永遠の観測者
それからしばらくはアラームが鳴り響くことも、警告灯が静かに点灯することもなかった。
毎日の機器の点検。いつも通りのやりとり。それでも、以前とまったく同じではなかった。
「紅茶を淹れるけど、飲む?」
「あぁ、貰おう」
書庫で石版を眺めながら、二人は資料の整理を続ける。今回みたいに、物語を知りつつも抗わなかった存在が他にもいたかもしれない。少なくとも、今後の傾向と対策にはなるだろう。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
素直に礼を言えるようになったのは、自分にとって大きな変化だった。礼を言えば、彼女が笑ってくれると、ようやく学習したのだ。
膨大な資料の存在も、意外にあっさりと解決した。
「原稿を機械で読み取って、検索しやすいようにタグ付けして一括保存したらどうかしら」
彼女の提案に、胡乱げに目を眇めた。
「……そんなものが存在するのか?」
「忘れたの? ここは……」
「……望めばなんでも手に入る。そうだったな」
「そういうこと」
試しに彼女が具体的にイメージした結果、見事に新しい機器が用意され、資料整理が捗った。
ほんのわずかに目を瞠った。
「なぜこんなものを知っているんだ?」
「言ってなかったかしら? 私が生きていた島国は少々特殊だったの。他の地域や国々と比べても、文明が異常なほど急速に発達していたのよ」
だから、この観測室ほどではないけど便利な機器はたくさんあったのよ。特に晩年はね。彼女はそう言って苦笑した。
「……例えば?」
「離れていても通話やメッセージのやりとりができる、板状の通信機器とか」
そんなものがあったのか。道理でここへ来て意外なほどすぐに計器類に馴染んだと思っていた。
「なぜ他の地域に文明が流出しない?」
「貴方も数千年前にはあの島国で生きていたから知ってると思うけど、あそこは……」
「……確かにな。絶海の孤島だ。海路にしろ空路にしろ、外に出ようとは誰も思わん」
「そうなのよ」
二人してため息をつく。だが、それは二人が悩む問題ではなかった。
ちらりと視界に石版が映る。その視線に彼女が気づいた。
以前なら、石版を前にすれば思考は否応なく過去へ引き戻されていた。だが今は、視線を逸らすことも、向き合うことも選べる。ただそれだけの違いが、思いのほか大きいと知った。
「……やっぱり気になる?」
「あぁ。だが……以前ほどではない」
「そっか」
視線を外して、目の前の資料に集中する。その様子を、彼女はどこか嬉しそうに眺めていた。
ここに来た当初、自分は『変わらないこと』こそが正しさだと信じていた。物語は定められ、観測者はそれを正確になぞる存在であるべきだと。だが、彼女と並んで過ごすうちに、その考えは少しずつ形を変えていった。
変わらないのではない。変わったうえで、なお続いていくものがある。
それを知った今、警告灯の消えた観測室は、以前よりも静かで、どこか温かかった。
*
突如として、アラームが鳴り響いた。警告灯も点灯している。
「あ、私、行ってくるよ」
「そうか」
『キー』である懐中時計を受け取り、観測室へと向かう。計測機器を確認して、違和感を覚える。これはもしかして。
(誤作動? いったいどうして……?)
慌ててすべての機器を点検し直す。その結果、計測機器のひとつの蓋がきちんと閉まっていなかったことが判明した。
蓋をきちんと閉め直して、再度計測を再開する。システム・オールグリーン。アラームも警告灯も消えた。
ホッとひと安心したのも束の間、本日の計器類の点検担当は彼だったことを思い出した。
(どうしたんだろう……彼にしては珍しいミスだわ……)
そして唐突に原因に思い至る。
「あ……」
そういえば、彼が機器を点検中に、自分が気になって伸ばした手と彼の手が不用意に触れ合ったのだった。彼が柄にもなく動揺していて、不思議に思ったので、よく覚えている。
(あのときね……でも、どうして彼はあんなにも動揺したのかしら……?)
不思議で仕方がないが、考えても答えは出ないので考えないことにした。
書庫へ戻ると、なんだか彼がソワソワして待っていた。
「ただいま。どうしたの?」
「いや……アラームが消えてもお前が戻って来ないから、なにかあったのかと思って」
「……心配してくれたの?」
思わず目を丸くすると、彼は決まりが悪そうに視線を逸らした。
「その……白雪姫の言葉を、まだ気にしているのではないかと思ってな」
「それは……そうだけど」
すべてを知りながらも、物語の結末を変えようとしない『観測者』。白雪姫の指摘は真実であるが故に、彼らの心にそれぞれ消えない爪痕を残していた。
「……いいのよ。私たちも日々選んでいるわ。世界に従って調律するのも、物語を修正するのも、介入しないのも、全部私たち自身の選択よ」
そう言えば、彼もようやく口元を緩めた。
「……そうだな」
それに、と言葉を添える。
「今回は計器の誤作動だったの。だから、本当になにも問題ないわ」
「そうか」
沈黙が降りた。彼はまだ少しソワソワしている。それが気になって仕方がない。
「どうかしたの?」
「いや、その……」
たっぷり十数秒はためらったあとで、彼はポツリと呟いた。
「……おかえり」
「!」
その意外すぎる言葉に、思わず目を丸くして、それから泣き笑いの表情でもう一度答えた。
「ただいま」
嬉しくて、涙がこぼれた。彼が慌てて手を伸ばし、指で溢れる涙を拭う。手を伸ばして抱きつくと、戸惑うようにぎこちなく背中に腕が回されたのがわかった。不器用にあやすように、頭がそっと撫でられる。
二人の温もりが同じになるくらいの間、そうしていた。
観測室は今日も変わらず、無数の物語を映し続けている。生まれ、進み、終わる物語。そのすべてに手を伸ばすことはできない。けれど、見届けることはできる。
懐中時計の重みを確かめるように指先に力を込めた。永遠に終わらぬ役目だとしても、この場所で彼とともに在る限り、それは孤独ではない。
観測者である前に、自分は今、確かに『ここにいた』。
*
時計の秒針は、今日も正確に時を刻んでいる。
変わらぬ営みのなかで、確かに、変わったものがあった。
物語は終わらず、世界は続く。それでも、この場所で見守る限り、急ぐ必要はないのだと思えた。
終
2026/01/23
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