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◇沈黙の残響

──灰の匂いがした


 それは、かつて記憶の底に沈めて封じたはずの匂いだった。


 誰も触れてはならぬと、自らに言い聞かせていたはずなのに──その扉の開いた音が、またひとつ沈黙を壊してしまった。



 中央観測室の上階には宇宙観測室があり、その下階には古びた書庫があった。魔法で厳重に封印された書庫の扉の中では、大量の過去の記録が眠っていた。


『この部屋は、なぜ封印されているの?』


 以前に彼女から尋ねられたことがあった。そのときの自分はなんと答えたのだったか。おそらく『危険だから』とか『不要な記録だから』とか嘘ではないが適当な理由を捏造したに違いない。そこは自分にとって触れられたくない領域だったから。


 あの部屋に眠っているものは過去の記録だけではない。そこには隠しきれない自分の罪もあるのだった。


 それなのに──。


「……なぜお前がここに……?」


 気づけば自分が施した封印は解けており、開いた分厚い扉の中には彼女の姿があった。


「ごめんなさい。扉が開いていて、つい……」


 気まずそうに後退る彼女の手の中の石版に気づき、氷の手で心臓が掴まれたかと思った。つい声を荒げてしまう。


「それに触るな!」

「……!」


 彼女がビクリと身体を震わせる。大股で歩み寄って、彼女の手から石版を奪い取った。大丈夫だ。石版は無事で、欠けひとつだってない。それなのに嫌な動悸が鎮まらなかった。


 忙しない動悸と呼吸をなんとか落ち着かせた頃、控えめな問いが耳に滑り込んだ。


「ごめんなさい……大切なものだった?」


 視線を向ければ、彼女の銀灰色の瞳には反省と気遣いの色が滲んでいた。大きくため息をついて頷いた。


「……怒鳴って悪かった」

「ううん、いいの……」


 彼女はなにも尋ねようとはしなかった。それが逆に、不思議と話してみようかという気にさせた。


「これは『墓』だ」

「……お墓?」


 不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らし、石版に視線を落とす。


「そうだ。私が作った。過去の罪を忘れないために」


 彼女は静かに歩み寄ると、石版を持つ手に彼女自身の繊細な手をそっと重ねてきた。


「……私が聞いてもいいの?」

「構わん。今更だ」


 見上げてくる銀灰色の瞳は、静謐でなんの嘘や誤魔化しも通用しないほどに、こちらを見透かしてくる。


 沈黙が落ちた。時計の針の進む音さえ遠のいたようだった。


***


 夜。宇宙観測室のソファに座ると、魔法で淹れた紅茶を呼び寄せた。


 ひとつのカップを自分に、もうひとつを彼女に差し出すと、彼女はカップを受け取ったが、どこかためらうような逡巡を見せた。


「……座れ。立たれていると話しにくい」

「うん……」


 彼女はなにかを迷っているようだったが、やがてポスンとソファに腰をおろした。自分のすぐ隣に。それが少しだけ意外で、思わず彼女をじっと見つめてしまう。


 敏い彼女はすぐ視線に気づいた。


「嫌だった……?」

「……別に」


 半分本当で、もう半分は誤魔化しだ。思った以上に近い距離感に、内心動揺している。それを悟られまいと必死だった。


 一度息を吸って、それから静かに吐き出す。大丈夫。問題ない。

 もう一度息を吸って、語り始める。ランタンの灯りが、彼女の横顔を照らし出していた。


「あれは……私がまだ物語の中で『生きて』いた頃のことだ」


 あの頃はどこへ行っても異端狩りが横行していて、高い魔力を持つ子供たちはそれだけで目をつけられた。子供の頃は魔力の制御が難しく、暴走しやすい。一度暴走したが最後、悪しき魔法使いや魔女として捕まり、次々と火炙りにされた。


「私は……そんな子供たちを救いたかった。だから、魔力を持つ子供の噂を聞けば、国中どこにいようが会いに行って、引き取った」


 引き取った子供たちを保護して、魔力の制御を教えた。魔力が暴走することがないように。周囲の人間も、少なくともそのときは、自分の行動を理解してくれているように見えた。


 それなのに。


「ある日……私が出先から帰ると、皆で暮らしていた家が燃えていた」

「──!」


 扉という扉は塞がれ、見張りがいて、中から飛び出して来た子供がいれば殴って気絶させては、また炎の中に放り込んでいた。


 目の前が怒りで真っ赤に染まった。気づけばその場にいた全員を皆殺しにして、炎のなかに飛び込んだ。生きている子供は一人もいなかった。


「私は……死ねなかった。高すぎる魔力が勝手に私を守ったからだ。すべてが燃え尽きて灰になったあとで、殺した連中のなかに見知った顔を見つけた」


 それは、彼らと生活をともにし、信じて留守の間、子供たちの世話を任せた人間だった。


「裏切られたのだと気づいた私は、人間そのものに絶望した。そのあとの物語の行方は、お前も知る通りだ」


 人間を信じられなくなり、選民思想へと傾倒した。人間を滅ぼし、魔力を持つ者だけの国を作ろうとした。

 親友の手で終わりがもたらされるまで。


「ここに来た私には、すべての記憶が残っていた。あの石版には、私が救えなかった子供たちの名前を刻んである。それが私の罪だ」


 長い話を語り終えると、沈黙が降りた。彼女は言葉を探しているかのように、視線をさまよわせていた。紅茶に口をつけようとするが、結局飲めずに止まっている。


 それには構わずにカップを傾け紅茶を口に含む。ちょうど飲み頃までに冷めていた。ぬるい紅茶が渇いた喉を潤していく。


 ふと反対側の手に温もりを感じて、視線を落とせば彼女の手が重ねられていた。言葉もなくキュッと握りしめられた手は、かつて救えなかった子供たちの手を思い出させた。


 握り返すことも、振り払うこともできずに、ただ温もりだけが通い合う。気づけば口にするつもりのなかったことが唇からこぼれ落ちた。


「私は……あの頃からなにも変わっていない。すべては、この手のひらからこぼれ落ちてしまう。なにひとつ救うことはできなかった」


 彼女も──今、隣にいるこの存在も、守れなかった。こんな場所に囚われることなく、平穏な一生を終えてほしかったのに。


 彼女の手の温もりが離れた。そう思ったら、今度はしっかりと手のひらを合わせて握ってきた。明確な意思を伴うその行動に、視線を向けると至近距離で目が合った。


「……まだ私がいるわ。ここに」


 貴方の手のひらの中に。言外に含まれた想いに、目の奥がじわりと熱くなる。救えたものが残っていると、彼女は言うのだ。


「お前が、私に救われたとでも?」


 声が震える。カップをまともに持っていられずに、テーブルに戻した。


「えぇ。貴方には、そうは思えないかもしれないけれど……」


 優しい温もりが手のひらから流れ込んでくる。彼女はポツリ、ポツリと語った。


「私は……貴方の血を引いていること、一度も後悔したことはないわ。それどころか……誇りに思ってる」

「……!」


 思いもしなかった言葉に、心が揺らぐ。長い間、一人で頑なに鎧ってきた心の一部がほつれた気がした。


「その誇りが、私の心を守ってくれた……貴方の存在は、私の道しるべで、貴方と夢で出会えたことが、私の転機となった……私が送った穏やかな余生は、貴方あってのものだったの」


 貴方はちゃんと私を救ったのよ。彼女はそう囁くように告げた。


「だが、お前は……!」

「私がここに来たのは、私の意思。貴方のせいじゃない。貴方を一人にさせたくなかった私が自分で選んだの」


 有無を言わさぬ強い言葉。それは、誰にも自分の選択を否定させないという、彼女の意思そのものだった。


「……そのためになにを犠牲にしたか、理解しているのか?」

「えぇ。貴方も、私も、安息の眠りを手放した。永遠に。でも、それは貴方を一人で放っておく理由にはならないわ」


 だから、お願い。彼女は言った。


「私まで拒まないで」


 手を取っていいのだと、彼女は言うのだ。もう一人で耐えずともよいのだと。


 胸の奥で、なにかが音もなく崩れた気がした。



 あれから再び日々は流れ、二人の日常は変わらぬままに、距離感だけが少し変わった。


 彼女は遠慮をしなくなった。適切な距離をわきまえなくなったということではない。ただ、彼女のほうから意図して距離を取ることがなくなった。

 それはまるでなかなか懐かない猫が突然懐いてくれたかのような感覚で、戸惑いと同時にほのかに温かな想いが胸を満たした。


 階下の書庫の封印はあれから解いたままだ。もう封印する必要はなかった。


 書庫にソファを出現させて、過去の資料を読み込んでいると、いつの間にか彼女がやってきて、すぐ隣に腰をおろす。以前なら必ず一人分の距離を空けていたはずなのに。


 それは不思議と嫌ではなく、心地よい距離感だった。だが、いかんせん慣れない。窮屈そうに身じろぎすると、彼女が気づいたように隙間を空けようとした。違う、そうじゃない、と彼女を止めようとして、ふと気づく。もう彼女を拒んではいない己の心の変化に。


 それに気づくと、あとは早かった。彼女という存在はじわじわと、だが確実に心に入り込んできた。それがなぜか不快ではない、不思議な感覚。


 心の中に誰かを住まわせることなど、もうないと思っていたのに。いつの間にか、空気に溶け込むようにして、彼女は自然とそこにいた。


 石版を眺める頻度は明らかに減っていた。失われた命。守れなかった子供たち。

 以前はその事実から目を背けていた。だが今は、彼女が隣にいることで、視線を逸らさずにいられる。その差は大きかった。


「またそれを見ていたの?」

「……あぁ」

「そっか」


 彼女の視線が石版に向けられる。彼女はひと言も責めない。良いとも悪いとも言わない。ただ、過去を振り返る自分を黙って受け入れてくれていた。その距離感が心地よかった。


 彼女の傍では、楽に呼吸ができる。その事実に気づいてしまった。もう彼女がいなかった頃には戻れない。その自覚だけが頭の片隅にあった。


 白い繊手が、つと伸びて石版に触れ、刻まれた文字を指でなぞる。


「おい……いや、なんでもない」


 とっさにそれを止めようとして、思い留まった。石版に触れられることや、名前をなぞることは、冒涜でもなんでもない。ただ、彼女は自分の心を理解して寄り添おうとしているだけなのだ。その事実に気づいたから。


「……ダメだった?」

「いや、いい」


 それは石版が『墓』から『記録』に変わった瞬間だった。


 刻まれた名前をひとつ、心の中でなぞってみる。以前なら、胸の奥をえぐるような痛みが走ったはずだった。呼吸が浅くなり、視界が狭まり、世界から切り離された感覚に陥っていた。


 だが今は、違う。痛みは確かにそこにある。それでも、息ができる。背中を丸めることなく、石版を正面から見ることができている。


 隣に誰かがいるという事実が、記憶の重さそのものを変えてしまったのだと、遅れて理解した。


 罪が消えたわけではない。許されたわけでもない。ただ、耐えられる形になった。それだけのことだった。


 忘れないために一人で抱えてきた。だが、忘れないために誰かと見ることもできるのだと。


 彼女と同じ文字を見ているという事実が、胸の奥に小さな熱を残した。

 同じ記憶を、同じ向きから見つめている。それだけで、世界の輪郭がわずかに和らいだ。


 静かに息を吸い込む。まるで、生き直すように。彼女と過ごす時間が、それを許してくれる気がした。


(なにを考えているのやら……)


 彼女の横顔を盗み見ながら、考える。彼女は今なにを考えているのか。なぜ距離を詰めているのか。推し量れそうでわからない。


 彼女は自分を慰めようとしているわけではないみたいだった。自分の行動を見張っているわけでもない。ただ、自分の隣にあることを彼女自身が選んだのだろう。ここに来ることを選んだように。


 なぜ自分のような異端の傍に居たがるのか、理解はできない。それでも、彼女を拒むことはできなかった。


***


 またある日はただ石版を眺めて過ごした。会話もなにもない時間。時計の音だけが規則正しく時を数えている。


 ふと気づいた。沈黙が苦しくないことに。それどころか、心地よさすら覚えていた。破りたくないほどに。


 会話がなくとも孤独ではない。たとえ彼女が席を立ってどこかへ行ったとしても、彼女は自分を置いてどこへも行かない。かならずまたここに戻ってくる。自分の隣に。その確信だけが心にあった。


 沈黙は、まだそこにあった。だがそれは、もはや自分を孤独にするものではなかった。


 かつての沈黙は、世界から切り離されている証だった。だが今は違う。

 言葉を交わさずとも、同じ時を共有しているという実感が、確かにそこにある。


 沈黙は終わりではなく、ともに在るための余白へと変わっていた。

 それを理解するまでに、どれほどの時が必要だったのか。だが今はもう、急ぐ必要もなかった。

2026/01/21

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