◆茨の夢の中で
──音がない
歯車の音も、灯の揺れも、なにもかもが存在しない。
目を開けると、無明の暗闇の中にいた。一瞬、自分が誰なのか、なぜここにいるのか、わからなくて混乱する。しかし、どこからともなく聞こえてきたカチコチと時計の針が進むかすかな音で、すぐにすべてを思い出した。
(私は観測者……世界を観測し、歪みを修正する存在……)
不思議なことに、時計の針のかすかな音を聞いていると、なぜか安心できる気がした。
ここは暗闇なのに、自分の姿だけは視認できるようだ。まるで内側からほのかに発光しているかのように。
(ここが……眠り姫の夢の中……)
彼女の意識体はどこにいるのだろうか。この広大な暗闇の中で、どうやって探せばよいのだろうか。
途方に暮れていると、時計の針の音が聞こえてくる方向が変わった。そちらに視線を向けるが、なにも見えない。だが、どうやら導いてくれているようだと察して、その方向へと歩き出す。
暗闇は足音さえも吸収するのか、時計の針の音以外はひたすら無音だった。
自分以外に光はなく、時の流れがゆっくりと軋むように感じられる。歩いているのか、止まっているのか、それすらもあやふやなまま、ただ時計の導きに従い、ひたすら足を動かした。
(ここは……眠り姫の夢というより、姫の絶望が形を成したものなのね……)
どのくらい歩いたことだろうか。やがて前方に、茨に覆われた天蓋付きのベッドが見えてきた。ハッとして駆け出す。近くに駆け寄って、茨の隙間から覗き見れば、ベッドには一人の姫が横たわっていた。
「貴女が……眠り姫……?」
声をかけると、ベッドを取り巻く茨がザワリとうごめいた。
『誰……?』
ベッドの上で姫が身体を起こす。よかった、会話はできそうだ、と少なからず安堵した。
「私は……そうね、仙女とでも名乗っておくわ」
『仙女様……? なにか御用ですか?』
不思議そうに小首をかしげる姫に、警戒されないよう微笑んでみせる。
「八人目の仙女が、貴女にかけた呪いが解けたのには気づいているかしら?」
『……知っています』
姫の声が沈んだ。おや、と思う。どうやら彼女は呪いが解けたことを歓迎してはいないようだ。
「もしかして……目覚めたくないの?」
『……!』
姫のまるでペリドットのような美しい瞳が大きく見開かれる。次の瞬間、みるみるうちに涙が盛り上がってあふれ出した。
『だって……お父様も、お母様も、わたくしを置いてどこかへ行ってしまったの。きっとわたくしのことなんて、嫌いになってしまったのね。もう会うことすらできないなんて……そんなのつらすぎるわ』
「そっか……悲しかったんだね」
コクリ、と小さな頭が頷きを返す。彼女はまだ十五歳。寂しいと思うのは当然のことだった。
姫の涙を見ていると、かつて自分が泣くことすら忘れていた夜を思い出した。
誰にも見られぬように、ただ時計の音だけが刻む暗闇の中で、『助けて』と言えなかったあの夜。
今なら少しわかる。誰かの悲しみを受け止めることは、自分の傷を見つめ直すことでもあるのだと。
『目覚めても、もうお父様もお母様もいない……わたくしはひとりきり。そんな現実、つらすぎるから眠っているの』
「……貴女の気持ちはわかるよ」
姫の置かれた境遇は、自分にとっても胸の痛むものだった。だが──。
『仙女様にわたくしのなにがわかるというのですか!?』
突然、姫がヒステリックに叫んだ。その瞬間、周囲に茨が次々と伸びて、茨の檻に閉じ込められてしまう。無数の棘が柔肌を傷つけた。
「……!」
『ねぇ、貴女になにがわかるというの……? 呪いをかけられたことも、親に捨てられたこともない貴女に、わたくしのなにがわかるの……!?』
それは姫の魂の慟哭だった。つらい、苦しい、寂しい。ただ愛されたかっただけなのに、愛を失ってしまった者の魂切るような叫びに、胸が潰れる思いだった。
「わかるよ……だって私は、実の父親に呪いをかけられて、殺されそうになったから」
『……!』
姫の涙が一瞬止まった。そんな彼女にかすかな笑みを向けて、自分の境遇を語り出す。
「私の父は……悪い魔法使いだった。優秀な魔女だった母を捕らえて、私を産ませて、母が逆らったら赤子の私共々、呪い殺そうとしたわ」
姫が息を呑んだのが気配で伝わってくる。さらに言葉を重ねた。
「でも、母が命懸けで守ってくれて……命は助かったけど、この身に呪いは確実に刻まれた。実の父の手で一度殺されなければ解除されないほどに強力な呪いがね」
『……それで……どうしたのですか?』
今や姫の意識は完全にこちらに向いていた。
「十七歳のとき、呪いを解くために私は一度殺された……実の父の手にかかってね。それでも息を吹き返したのは、亡き母の愛が私を守ってくれたから」
そのあと、主人公と一緒に実父を倒し、この手でとどめを刺したのだが、それは今言う必要のないことだった。
「愛し、愛された記憶ってね、なくならないの。貴女のご両親は確かに貴女を愛していた……だからこそ、呪いに倒れ眠り続ける貴女を見るのがつらかったのだと思うわ。自分たちにもっと力があれば、愛する娘を守れたのに、と」
『……!』
姫の表情が大きく歪む。今にも再び泣き出しそうに、大きな痛みをはらんで。
「私は大きくなるまで、母の顔すら知らなかったの。でもね……この身体はきちんと覚えていたのよ。母に愛され、命を守られた見えない証を」
『……見えない、証……?』
どこか不安そうな姫に、大きく頷きを返した。
「そう……私が生きていること、生きて幸せになること、それこそが母の望みだった。だから、私は今も生きているの。貴女のご両親だってそうよ。貴女が幸せに生きることを、きっと望んでいるわ」
『……わたくしが、幸せに生きる……? でも、わたくしの幸せは……!』
必死に言い募る姫の言葉を、補完する形で引き継ぐ。
「ご両親と一緒にいること、かしら? でもね、生きていれば親との別れは、いずれ必ず訪れる。貴女は探さなくてはいけないの。別の形の幸せを」
『別の形の幸せ……? でも、そんなものどこに……?』
困惑する姫に、いたずらっぽく笑いかける。
「そうねぇ……無責任なことは言えないけれど、たとえば今、貴女にひと目会うために城を訪れている王子がいるわ。会ってみない?」
『えっ……? 王子様が、このお城に?』
予想外の展開に、姫の目が思わず丸くなる。
「そうよ。会えば、王子は貴女に求婚するかもしれない。もしかしたら貴女も王子を気に入るかもしれない。そうしたら……その先には別の形の幸せが待っているとは思わない?」
『──!』
姫の顔が、見る間によく熟れた林檎のように真っ赤に染まる。そうしていると年相応で、とても可愛らしい。
姫はそっと胸に手を当てた。胸の奥が、かすかに温かくなっているのを感じる。
周囲を取り囲んでいた茨の檻が、ソロソロとほどけて消えていく。姫の横たわるベッドを取り囲む茨も、気づけばすべてなくなっていた。
そっとベッドに歩み寄って、起き上がった姫を両腕で抱きしめた。
「今まで寂しくて悲しかったね。でも、もう大丈夫。貴女はきっと幸せな未来を自分で掴み取れるわ。だから、どうか勇気を出して」
『勇気……そうね、わたくしはきっと怖かったのだわ……来てくれてありがとう。それから……』
傷つけてごめんなさい。そう小さく謝罪した姫に、穏やかな気持ちで笑みを向けた。
「いいのよ。その気持ちが嬉しいわ。自分の非を認めてきちんと謝れる貴女は、とっくに勇敢で素敵なレディだもの。さぁ、いってらっしゃい」
『はい……』
ありがとう──眠り姫の思いが、柔らかく空間に溶けた。同時に時計の針の音が大きくなる。再び意識が抜け落ちる感覚がして、視界が暗転した。
***
──音が戻ってくる
慣れた歯車の音と、揺れるランタンの明かりが周囲に広がる。闇を追い払うような、やわらかな金色の光が視界に満ちた。
なんだかとても疲れたような気がして、ただ瞬きを繰り返していると、すぐ近くから声がした。
「起きたか。気分はどうだ?」
「……悪くはないかな」
そう返事すると、目の前に紅茶のカップが差し出された。どうやら受け取れということらしい。
手を伸ばしてカップを受け取る。静かに口をつけると、飲みやすい温度に調整されていることに驚いた。
(私の猫舌、覚えていてくれたんだ……)
心がふと温かくなる。嬉しくて思わず表情が緩んだ。
「少しは貴方の役に立てたかしら?」
「……さぁな」
そのまま彼に背を向けられても、今はまったく気にならなかった。だって心はこんなにも温かいのだから。
「……ただいま」
小さく囁くと、彼が勢いよく振り向いた。
「今……なにか言ったか?」
「ううん、なにも」
おかしくてクスクスと声をあげて笑えば、彼は怪訝そうな顔をしている。
「お前……」
「?」
「……いや、なんでもない」
そのまま立ち去ろうとした彼の背中が、一瞬だけ止まった。
「……あの眠り姫、どうだった?」
「少し、泣いてた。でも、強い子よ」
「そうか」
それだけ言って、彼は再び歩き出す。離れていく背中を見送りながら、心の中で呟いた。
(ねぇ、知ってる……? 『いってきます』って言葉はね、『ただいま』って言うためにあるんだよ……? 『いってらっしゃい』と『おかえり』もそう……)
だから、眠り姫の夢を渡る前に自分は『いってきます』と口にした。最初から彼に『ただいま』と言うつもりだったから。
(いつか……『おかえり』って言ってほしいな。私も、いつでも貴方に伝えるから。『おかえりなさい』って……)
幸せな気持ちで温かい紅茶を飲みながら、もう一度目を閉じた。
紅茶の香りが、ゆっくりと部屋に広がっていく。二人の間に流れる沈黙は、もう気まずいものではなかった。
歯車の音が一定のリズムで時を刻む。そのたびに、夢の中で見た茨の森が少しずつ遠ざかっていくように感じられた。
机の上には、さっきまで彼が見ていた観測記録が広がっている。淡い光の線が、幾重にも世界を結んでいるのが見えた。
あぁ、彼はこうして何千、何万もの『物語』を見つめてきたのだ──。
その孤独の深さに、改めて胸が痛くなる。けれど、もうそれを怖いとは思わなかった。
彼の肩越しに見えるランタンの灯りが、かすかに揺れた。それはまるで、誰かがそっと微笑んだようにも見える。
「……ありがとう」
小さく呟いた声は、紅茶の湯気に混じって宙へ消えた。
その瞬間、時計がひときわ大きく時を刻んだ。まるでこの小さな世界が、確かに動き続けていることを告げるように。
2026/01/20
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