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◇歪みの兆し

 彼女がこの世界の中心に来て、しばらくが経つ。歯車の音も、ランタンの灯も、二人の間ではもう日常のBGMになっていた。


 あれから何度も歪みは生じたが、そのたびに自分か彼女が交互に対処にあたってきた。


 最初こそ不安を隠せなかった彼女ではあるが、それ以降は一度たりとも内心を口にすることはなかった。


 問題などなにもない。そのはずだった。少なくとも、今朝までは。



 あるとき──。


(……妙だな……観測機器の数値にズレが生じている……)


 いくつもの観測機器の間を行き来しながら、その観測結果にしばし思案に暮れる。故障のはずはない。ならば、これは歪みが生じる前兆と考えるのが自然だ。


 前兆でこの規模なら、もし本格的に歪みが生まれたら──おそらく物語は大きく狂い、それを許容しない世界は未曾有の災厄に見舞われるだろう。


(このままでは厄介だ……早期に修正を……!)


 中央にある巨大観測装置のスリープモードを解除し、ホログラムとして多層的に映し出される世界を隅々まで確認する。引っかかりを覚えるような描写はなにもない。それなのに。


 突如として静寂を破り、アラームが鳴り響いた。明滅を繰り返す警告灯。狂ったように計測を続ける計器たち。


 機器の針が振れた瞬間、空気が軋むような音がした。全身の肌がゾクリと粟立つ。世界そのものが軋んでいるのだ。


 ようやくデータが出揃った。


(座標N49E2、物語名『眠り姫』か……)


 いったいなにが問題なのか。データのひとつと中央のホログラムを見比べて、そこでようやく気がついた。


(約百年におよぶ呪いがそろそろ解ける頃合いのはずだが……)


 いかなる理由か、ホログラムに映し出された茨に覆われた城が目覚める気配は微塵もない。

 となると当然、眠り姫は目覚めず、城も茨に包まれたままでは、眠り姫と王子は運命の出会いを果たせない。


 つまりハッピーエンドを迎えるはずの物語がバッドエンドに向かって加速しているということだった。


(まずいな……なぜ目覚めない……? なぜ呪いが解けない……?)


 このような事態は初めてだった。いつもなら淡々と片づける作業に、かすかな焦りが滲む。


 いくら考えても答えは出ない。その間にもアラームは鳴り響き、警告灯は忙しなく点滅を続けていた。


 ホログラムの地表が波打つ。城の周囲から伸びた茨は、やがて地平を越え、隣接する物語の国境にまで達していた。


 そこに登場するはずの『白鳥の乙女』の物語が、一瞬だけ歪んで揺らめく。


(干渉している……!? まさか物語間の境界が……?)


 そう、これはただの『眠り姫』の異常ではなかった。世界そのものが、今、眠りに飲み込まれようとしていた。


「……歯車が、鳴いているのか……まるで世界が軋む音のようだ」


 ポツリと呟き、自分の無力さに奥歯を強く噛み締める。そのときだった。


「……大丈夫? アラーム、鳴り止まないみたいだけど……」


 彼女がひょっこりと顔を出した。その銀灰色の瞳が雄弁に心配だと物語っている。


「どれどれ……なるほど、眠り姫が目覚めないのね」


 彼女は部屋の中央の装置をひと目見るなり、大体の状況を把握したようだった。


「私にも手伝わせて」

「……必要ない」


 予想以上に冷たい声が出て、自分でも驚いた。彼女をこの件には関わらせたくない。それはくだらないプライドでもなんでもなく、自分が解決すべき問題に、ただ彼女を巻き込みたくない一心だった。


「でも、アラームが……」

「いいから、私の邪魔をするな」


 睨んで、冷たい言葉を浴びせれば、彼女が怯むと思っていた。しかし、そうではなかった。


「……歪み、大きくなっているんでしょう? 私にもわかるよ」


 彼女は寂しげに微笑むと、今度は尋ねることなく宣言した。


「私も手伝うわ。貴方の邪魔はしない。約束する」

「……!」


 脅して冷たく振る舞ったというのに、そう言い切られてしまっては、反論の言葉も出てこない。


 彼女を止めなければならないのに、その一方で、彼女の力を借りたいと思っている自分がいることを、もはや否定はできなかった。


 沈黙が落ちる。歯車の音だけが、二人の間を満たしていた。


「……勝手にしろ」

「うん。ありがとう」


 彼女はさっそくデータを集め始めた。その間にも頭は休むことなく、どうすれば物語を修正できるか思考し続けている。


 アラームは延々と鳴り続けていた。


「ねぇ、ちょっと思ったんだけど……」

「……?」


 唐突に彼女が声をあげた。


「眠り姫に直接事情を聞くことはできないの? ほら、貴方が私の夢に現れたように」


 そのことか。遠い記憶の糸を手繰って、当時の状況を思い出す。


 彼女のときは、先祖である自分の汚名を晴らすべく、己を犠牲にしながらもひたすら邁進する彼女を見ていられなくて、つい介入してしまったのだ。

 あれは自分でもやりすぎだったと今なら思うが、そのことを反省するあまり、今回はその可能性を失念していたようだ。


「呪われた側の人間が、呪いが解けない事情を知っているとは思えんが……」

「うーん、そうかもしれないけど……私はなんとなく、彼女が知っていそうな気がするのよね」


 小首をかしげる彼女に、思わず胡乱げな眼差しを向ける。


「……根拠は?」

「あまりにも他の要素が見当たらないのよ。呪いをかけた八人目の仙女が、再び彼女になにかした形跡もないし、他の七人の仙女たちの干渉もない……だったら眠り姫本人の意思であると考えるのが自然かなって」

「……」


 一見、突飛な意見のようだが、一考の余地はある。仮に、眠り姫本人の意思で呪いが解けないとして、その理由はなんなのだろうか。


 内心の焦りを押し隠して無言で視線を向けると、彼女は柔らかく苦笑した。


「だから、それをこれから彼女に聞きに行くんじゃない」


 それもそうか。どうやら自分は考えすぎていたらしい。深いため息をひとつついて、それから彼女に尋ねた。


「『夢渡り』の術は修得しているのか?」

「うっ……実はまだなの」


 彼女がギクリと身を強張らせる。我知らずまたため息がこぼれた。


「……話にならんな」

「お願い、力貸して……?」

「……」


 無言で懐中時計を握りしめ、魔法発動の準備に入る。これは物語を修正するためだ。潤んだ瞳が上目遣いでお願いしてきたからではない。決して。


「時間の制約があるのを忘れるな」

「わかっているわ。夢に閉じ込められて戻れなくなるのは困るもの」


 こんなときでも微笑む彼女に、ついぞんざいな口調になる。


「いいか、焦るな。歯車を見ろ、時間を聞け」

「わかってる……ねぇ、もし私が戻ってこなかったら……貴方はどうするの?」


 彼女の問いかけに、軽く鼻を鳴らした。


「そんな仮定の話は不要だ」

「それでも、聞かせて?」


 面倒な質問だった。それでも少しだけ考えて、口を開く。


「そのときは、私も行く。そして……必ずお前を連れ戻す。身体だけ置いていかれては、迷惑だ」

「……そっか」


 そのとき見てしまった。そう呟いた彼女の心底嬉しそうな、大輪の花が咲いたような満面の笑みを。見なければよかったと、少しだけ後悔した。彼女を送り出すことを、ためらってしまうから。


「じゃあ……いってきます」


 懐中時計の針の音がひと際大きく響いた。ランタンの灯が縦に長く伸び、その輝きを激しく増す。光がねじれ、時がほどけた。


 彼女の身体から、ゆっくりと意識が抜け落ちていく。次の瞬間、糸が切れた操り人形のようにくずおれた彼女の華奢な身体を抱き留め、両手で抱きかかえて、手近にあった一人掛けのソファに座らせた。


 その際、彼女の柔らかな黒髪が顔にかかったのを見て、気づけば手を伸ばして髪をそっと梳き払っていた。


「──!?」


 直後、自分がなにをしたのかに気づいて、思わず自分の手を凝視したが、そこには柔らかく指に絡んだ黒髪の感触が残っているだけだった。



 いつしかアラームは鳴り止み、警告灯も今は静かに消灯している。まるで世界が息を吹き返すかのように、ランタンの灯が揺らめいた。


 その光の中で、ふと眠る彼女の横顔を見る。それは、長い孤独の中でいつの間にか見失っていた『生のぬくもり』だった。


 彼女の目覚まし用に、と気まぐれで紅茶を淹れる。彼女は猫舌だから、きっと温かいくらいが飲みやすいだろう。酒への耐性といい、味覚といい、こんなところまで自分と彼女はそっくりなのだった。


 やがて彼女の長い睫毛が震え、銀灰色の瞳が姿を現した。


「ん……」

「起きたか。気分はどうだ?」

「……悪くはないかな」


 温かい紅茶の注がれたカップを差し出すと、彼女はぼんやりした表情でそれを受け取り、静かに口をつけて、少しだけ驚いたような顔をし、それからようやく微笑んだ。


「少しは貴方の役に立てたかしら?」


 そのどこか無邪気な笑顔が眩しすぎて、つい彼女に背を向けてしまう。


「……さぁな」


 今、彼女がどんな表情をしているのかはわからない。だが、これだけは確かだった。


「……もう、独りではいられないのかもしれんな」


 囁いた独白は、彼女に届くことなく空中に舞って消えてしまう。


 コツン、と時計の針がひとつ進んだ。それは、世界が確かに動き出した合図のようでもある。

 そのわずか数秒後、遠いどこかで、また別の歪みを知らせるかすかな振動が走っていたことに、彼はまだ気づいていなかった。

2026/01/19

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